(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Edit:2009年03月09日】
藤井寺市惣社に鎮座する志貴縣主神社(しきあがたぬしじんじゃ)です。別称は「総社」または「惣社」という呼称で親しまれているようです。
いやはや、この神社にたどり着くのに大変苦労しました。伴林氏神社(ともはやしのうじのじんじゃ)から史跡 允恭天皇陵に行って、それから探しに来たのですが、また黒田神社(くろだじんじゃ)に戻ってしまい、ここだと思ったら「史跡 国府遺跡」にたどり着いてしまいました。
今になって地形図を見ていると、この神社の鳥居マークはない事に気がつきました。
町名の文字で鳥居マークが記入されていません。
なんとなく勘違いで発見したというか、名前は確認していたので記憶に頼ってたどり着いたのでしょうか。今回発見していなければ悩み抜く所でした。
『志貴縣主神社縁起
この神社は、河内古市より国府に至る南北約五粁(km)に亘って連なる洪積層の「国府・古市台地」の北端に鎮座する延喜式内社(延喜式に記されている古社)である。
祭人は、神武天皇の長子と伝えられる神八井耳命(綏靖天皇(すいぜい:第二代)の兄に当る)を主神とし、天照大神、春日大神、武甕槌命、天児屋根命、比咩大神、表筒男、中筒男と底筒男のいわゆる住吉三神と神功皇后の各神を合祀している河内でも由緒ある神社であった。
大和時代初期の頃、柏原付近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武の長子、神八井耳命を始祖にする志貴縣主及びその同族である志貴首であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であったと考えられる。
三代実録の清和天皇の貞観四年(862)二月の記録によると
「河内国志紀郡の人、外従五位下、行木三助(木工寮の次官)兼右大臣(藤原元経)家令 支配人 志貴縣主福祓ら三人に姓として、「宿弥」を賜い、即ち本居(本籍地)を改め、左京職(平安京の左京)に隷す。
志貴宿弥は、神八井耳命の後(子孫)、多朝臣と同じ祖なり。」
という内容が記されており、平安初期の八百六十二年の二月に本籍を志紀郡から平安京の左京転じたことが判るのである。
その後、村上天皇の天歴年間(950ころ)諸国の諸経費を節減するために設けられた。惣社の剣により、各国々の国府(国を治める役所)に最寄りの有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一ヵ所に集めて祭祀されることになったため、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称することになり、近隣の集落をも「惣社」と称するようになった。
例祭は10月9日で明治五年に村社の扱いを受け、本殿、拝殿を再建し現在に至っている。
昭和五十一年七月二十五日』
石標に彫られている歴史は、なかなか重厚なものがあります。
迷った末に発見した甲斐がありました。
募集期間:2010年7月上旬から下旬【間もなく一次終了です。】
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