(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Edit:2009年03月06日】
|
|
← | Walk Zigzag(Viewhallooレポート集) | → |
サンプル (Sample) |
|
|---|---|---|---|---|---|
| 申し訳ありません。移転工事中です。リンク切れ等が発生しています。 | |||||
人間の「所有欲」は止まるところを知らないようです。
何を思ったか、あちらこちらの寺から仏像を盗んで、自宅で拝んでいたと言います。本当でしょうか。
そこにあるのは、「信仰心」ではなく、単なる所有欲ではないでしょうか。
京都市の建仁寺から仏像を盗んだとして逮捕された阿部逸男容疑者(59)が、他にも宝泉院(京都市左京区)と西明寺(同市右京区)からも盗んだと供述しています。
過去にも、仏像を盗んだり、地蔵を盗んだりと言う事件が記憶にありますが、最近では、オークションに出た「運慶作仏像が1280万ドル」で取引されたという記憶もあります。
隣国の中国の資産級のブロンズ像を『競売会社クリスティーズがパリで開いたオークションに参加し、ネズミとウサギの頭部のブロンズ像2点を計3149万ユーロ(約38億円、手数料込み)で落札した。』なんて騒ぎもありました。
『「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンジー(1869-1948年)が生前、所持した丸眼鏡や皮サンダルなど5点が2月5日、ニューヨークでオークションにかけられ、インド人実業家が180万ドル(約1億7800万円)で競り落とした。』何てニュースも飛び込んでいます。
文化財を購入して博物館に寄付しているようなこともありますが、はっきり言って、この様なものを個人で所蔵しても結局は維持管理ができません。
仏像などは、あくまでも信仰の対象物ですので、自宅においていくら拝んだとしても、自己満足の域を出ることはありませせん。
もし信仰心が本当に宿ったとしたら、そのようなことは意味がないことであることに気がつくはずですし、仏像に対する信仰というものは、あまりにも瑣末なことであることに気がつく筈です。
信仰は心の内にあるもので、決して物体化された、仏像などにはないのです。
それを信じることが信仰であり、私がカトリックの洗礼を受けてから、ミサで「キリストの体」として、パンをP食べるのですが、ある人が「このパンをキリストの体と信じさせてください。」といつも言いながら頂いているという話を聞いて、これが本当の信仰に至る道であると信じています。
仏陀を信じたり、マホメットを信じたりというのは、信仰の証であり、うまくいけば、神様や仏様のおかげと感謝して、うまくいかなければ、自らの努力不足を反省する姿こそ信仰に至る道ではないでしょうか。
そこへ、仏像やマリア像やキリスト像をいくら拝んだところで、自らの生き方や態度が変わらなければ、像を所有しているにすぎないのではないでしょうか。
まして、盗んだ仏像にいくら手を合わせたところで、スタートが誤っているのですから、なかなか本道には戻ることはできないと思います。
残念で情けない話ですね。
関連ページ(話題)