(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Edit:2008年08月10日】
やっとたどり着いた東大阪市長田に鎮座する長田神社ですが、横には「一乗寺」と「おかげ灯籠」がありました。
『長田神社と子安地蔵
長田から西堤にかけて細長く続く旧集落は、古くは旧若江郡の北辺に広がっていた大きな湖沼(新開池)の南岸堤上にそって営まれた古い集落です。
長田村の中央字相生と呼ばれた所に鎮座する長田神社は、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命、多紀理毘貴命の三神を祀っています。神社の北方には、字意伎宮屋敷、弓場と呼ばれた所があり、神社が消失したために現在地に移されたといわれます。境内には本殿の他に末社として、塞神社、愛宕神社、稲荷神社、水神社、琴毘羅神社があります。
境内の北側には、「摂取庵」と呼ばれる浄土宗の堂があり、鎌倉時代末期の木造地蔵菩薩立像(像高91cm)が安置されています。この地蔵像は、地元に伝わる「子安地蔵縁起」によれば、嘉禄年中(1225-1227)、恵心僧都作として伝えられ、江州(滋賀県)堅田で子安地蔵として祀られてきたものが、有縁の地である長田村へ移されたことがわかります。地蔵像及び子安地蔵縁起ともに、この地の歴史を伝える文化財として昭和49年3月25日に東大阪市文化財保護条例により有形文化財に指定されています。
昭和63年3月 東大阪市教育委員会』
本殿に掲示されている延喜式では、
『延喜式内社といわれる長田神社
意岐部神社は古来平安朝の初期醍醐天皇の御代延喜式制によって、村の守護神として鎮座された由緒ある古社としての記録を存せる宮であり、この由緒は村人によって伝承せられたる信仰上の伝統であり、旧村の歴史に取って誇り得るものであったが、当時この宮の所在について旧長田村と御厨村の何れに鎮座せるものか。「彼御社波是奈利止○○○記有書奈久辨有人毛無」と当時枚岡神社の宮司ー水走英忠によって宮争の解決を心霊に誓って決定せんとし、長文の神詞を起草しこれを現在の楠根川橋上(長田村、御厨村の境にある橋)に於て幣を中央に立てて、深更に至って、燭を灯しこのあかりの左右何れかに倒れるを以って、宮の所属を決定したといいうことである。
しかしながら現在この由緒ある意岐部神社の所在は、中世の頃天災の為に消失し今日全くその旧址判明せず現在長田神社の北方(田園の中)に意岐宮屋敷と云い、又弓場の下と称する小字地名のあることによって意岐部神社の宮跡であろうと言われている。
東大阪市教育委員会』
それにしても、神社を回っていると様々な名称が交錯します。この神社も、「意岐部神社」という名称が飛び出してきたり、御厨村の神社がここを村社としようとしてたということは、現在、御厨にある「御厨の天神社」は、この神社よりも新しいのでしょうね。
しかし、昔の楠根川が開削されて大きな第二寝屋川になっていますので、昔の道を捜すのは少し難しい箇所がいくつかあります。このあたりは説明文にあるように、西堤まで細長く集落が続いた形跡があります。細くくねった道が続いています。
次は北へ向かって七軒屋の神社マークを目指すことにします。
関連ページ(話題)
関連ページ(東大阪市内の神社)