(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Edit:2008年05月08日】

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東大阪市岩田町 石田神社


近鉄奈良線が奈良に向かって中央環状線を越えて若江岩田駅に到着する直前の北側の東大阪市岩田町に鎮座する石田神社(いわたじんじゃ)は位置しています。

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石田(いわた)神社の御由緒略記によると
『御祭神
 仲哀天皇(足仲彦尊)第14代
 応神天皇(誉田別尊)第15代
 神宮皇后(息長足姫尊)

御創立 欽名天皇 御守(527-571)この田圃の中に岩船ありて、其の上に三神現し給りしより初めて杜壇を築きて奉祀せるものなり。

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御社號 延喜式内 石田神社又は石田八幡宮を◆す。

御神徳

【仲哀天皇】 当時しばしば九州熊襲の反乱がありて、国民が不安な生活を営むことが久しかったので、天皇は之を御親征になり、舟師を率いて海路筑紫に牟し給ひ熊襲を討たれ、陣中にて崩御し給う。

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【応神天皇】 仲哀天皇の皇子で御母は神宮皇后にあたられる御方であります。八幡大神の主神にましまして、御在世中は深く内外の政治に大御心を用ひ給ひ、学問、文化、殖産、興業、交通、経済等のあらゆる面に、御治績を垂れ給ひ、◆来天皇は、厄除開運の御神徳と共に、我が国文教の租、殖産興業の守護神として、国民の崇敬するところである。

【神宮皇后】 仲哀天皇の皇后にましまして、父は開化天皇の曾孫にあたられる息長宿禰王、母は葛城高額媛と申し、天日槍の後裔にあたられる御方であります。仲哀天皇と御一緒に九州熊襲征伐に向はれ、天皇が陣中で崩御された後も女性の御身ながら、秘して喪を発せられず懐胎の身をもって、男装して海を渡り、新羅を征し之を降し給うた。その後、高麗、百済も◆臣となり朝貢するに至った。◆来応神天皇を奉じて政を摂り給うこと70年余、御年百歳で雅桜宮に崩御せられた。古来長寿の御神徳と共に、特に安産の守護神岩田帯の授与として民の崇敬するところである。】

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石田神社と宮寺「善城寺」

『平安時代の初め延長5年(927)に完成した「延喜式」の神名帳にのせられている古い神社で誉仲彦尊(仲哀天皇)、足長帯姫尊(神宮皇后)、誉田別尊(応神天皇)の三座をまつり、後に天照大神、天児屋根命を合祀した。

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欽明天皇の時代(500年代)にこのあたりの水田に岩船があって、三神がその上に現れ、そこで神社を築いてお詣りしたと伝えられる。俗に八幡神とよばれ、明治5年に村社と定められた。

また神社の宮寺「善城寺」は石田神社の北側にあり、禅宗黄龍派で、江戸時代には村人の崇拝する寺であったが、明治初年の神仏分離の際に廃絶した。寺に安置されていた不動明王像(室町時代作)と左右の制多迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)童子の二体も共に当地の西光寺に移され現存している。
平成13年
 岩田超文化財保存会
 東大阪市

岩舟の伝説・幸神塚と無名塚

『現在は空き地になっているが、石田神社の北側に昭和38年まで直径2m足らずの円錐形の二つの小塚が水田の中にあった。東の塚を「幸神塚」といい、西の塚は「無名の塚」と呼ばれている。伝説によると「幸神塚」は「塞の神」(村への疫病などの侵入を防いだり、道行く人を災難から守る神)をまつった旧地だといわれている。

またここを開拓した時、船によく似た大きな岩船があり、その長さは東塚より西塚に達し、全長50m近くもあった。これは古代大きな石の船がここで難破したもので、二つの塚はその前後のものといわれている。石田神社の社伝によると、欽明天皇(500年代)の御代の岩船に祭神が降りてきた伝えられる。
平成13年
 岩田超文化財保存会
 東大阪市

ここは電車から見るとこんもりとした木々が目につきます。これだけの説明のある神社ですから相当古くからあったようですね。村社となったために駅から近いのにちょっと寂れた感じになってしまったのでしょうか。行基開墓の河内七墓のひとつである岩田墓地はここから800mほど北にあります。


 


関連ページ(東大阪市内の神社)


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