(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2010年05月03日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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門前の聖句『どこまでも強情を張る人を善人という』


2010年04月29日に八尾市本町3丁目の慈願寺に掲示されていた『聖句』です。

どこまでも

強情(ごうじょう)

()(ひと)

善人(ぜんにん)という

(曽我量深)


『曽我 量深(そが りょうじん、1875年〈明治8年〉9月5日 - 1971年〈昭和46年〉6月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。(ウィキペディア:Wikipedia)』

東本願寺高廊下掲示板に掲載された量深の法語

  • 選択本願の念仏とは 念仏申せば助かるということではない 念仏でなければ助からないということだ
  • 自分がわからないから 信ずる信心がぐらつく
  • われわれは知らなくても 仏に願いをかけられ 望みをかけられておる
  • あるものをおそれ、ないものをほしがる、これが悪人の問題
  • 相手を鬼と見る人は 自分もまた鬼である
  • 仏様どこにおいでになりますか 南無阿弥陀仏と念ずる人の前においでになります
  • 浄土は言葉の要らぬ世界である 人間の世界は言葉の必要な世界である 地獄は言葉の通じない世界である
  • 往生の“生”は生まれるというほかに“生きる”という意味がある
  • 人間は生死(しょうじ)の苦しみをのがれようとして、生死に苦しんでいる
  • 如来は我なり されど我は如来に非ず 如来我となりて我を救いたもう

真宗大谷派三宝寺HPより転載

  • 自分は正直なつもりであろうが、実はそんな人間が一番不正直な人間であろう
  • われ如来を信ずが故に如来在しますなり
  • 正しい信念というのものは、劣等感を捨てさせることができる

(ウィキペディア:Wikipedia)

なかなかの高僧の法語のようです。

第79回「自力作善のひと」問い法話の中に出てくる「(これより蛇足)にある少々皮肉っぽい」フレーズのようです。

『歎異抄で云う〈善人〉とはどんな人のことか・・・・・

仏は無条件に救うといっているのに、

いやいや自分の努力でなんとかなりますと、

自分の力を過信してか、救済の困難さを知らぬためか、

どこまでも強情を張る人を善人というのです。

なぜ、そんな人を“善人”というのかというと、

主体性をもって人生を独力で切り開いていく

不撓不屈の精神の人を社会は賞賛するからです。

努力には必ず成果がついてくると信じているこの手の善人は、

必ず見返りを求めるので、わたしはこれだけやったと、

仏とすら取引しようとするのです。

この傲慢さゆえに、善人は仏の救いを必要としていない。

どうぞ助けてくださいなんて、死んでも言えない。』

なんとも、「理解は易く行うは難し」の典型のようです。


金言や箴言や聖句に解説は必要ありません。

どう理解するかは、読んだ人の知性の結果であると思います。

人によって感じるところが異なるのは当然でしょう。

「こう書いてあるから、こういう意味だ」ではなく、もっと意味の幅も広いものであり、個々人の人生にどう生きるかはその人次第であると思います。

じっくりと味わってください。


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