(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2022年06月08日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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奈良市鳴川町 融通念仏宗 豊成山 徳融寺


奈良県奈良市鳴川町にある「融通念仏宗 豊成山 徳融寺(とくゆうじ)」です。

私の疑問が解けました。

そもそも「融通念仏宗は河内特有の宗派」だと教えられたのが誤りであったという事です。

だから、桜井市等はかなりの寺院が融通念仏宗であることが不思議ではないという事です。

こういう説明文は有難いですね。


徳融寺(とくゆうじ)略案内

当寺はもと南都七大寺の一、元興寺(かんごうじ)境内にあり、観音堂(かんのんどう)とも別時念仏の道場であったとも伝えている。

室町時代、元興寺(かんごうじ)土一揆(どいっき)で羅災したため本尊を現在地へ移し、天正十八年(1590)融通念仏の檀家(だんか)寺院として復活した。

本堂は寛文七年(1667 県文)休岸上人の再建。

木造阿弥陀如来(あみだにょらい)立像を祀る。

頼朝公の妻北条政子の念持寺であったという。

境内には毘沙門堂(寛永九年 市文)観音堂(かんのんどう)地蔵堂(じぞうどう)方丈(ほうじょう)庫裡(くり)(慶長十六年。もと本堂)鐘楼(しょうろう)等、時代別の堂宇が軒をつらね、観音堂(かんのんどう)本尊は平安初期、子安(こやす)観音(かんのん)立像である。

大和北部八十八ヶ所四番札所で「願ひをばかけてぞむすぶ結肌(ゆわた)帯たはやすくしも()かせ給ひぬ」の詠歌がある。

幕末の頃、観音の子育て信仰にあやかって寺子屋が開かれ、明治五年の学制で「魁化舎(かいかしゃ)第三小学」と改まり、のち西木辻八軒町に移って現在の奈良市立済美小学校に至っている。

当時は平城京(へいじょうきょう)下京(げきょう)、六坊大路にあたり、藤原不比等の孫、右大臣横佩(よこはぎ)豊成の宅跡とされる。

折口信夫の小説「死者の書」で知られた豊成の娘中将姫は当地で育ち、少女時代継母にいじめられた。

虚空(こくう)塚」「雪積(ゆきぜめ)松」など受難のあとが随所に残されている。

観音堂(かんのんどう)裏には父子の石塔(鎌倉時代)がある。

戦国の世、梟雄(きょうゆう)松永弾正久秀が多聞城(たもんじょう)の石垣を築くため、近郊の石塔を徴発(ちょうはつ)した。

右の石塔にも徴発(ちょうはつ)の手が及んだので、当寺の一代で連歌師の心前上人が「(ひき)残す花や秋咲く石の竹」と()み、(あや)うく難を(まぬが)れたという。

什物(じゅうぶつ)に奈良時代の木心乾漆(もくしんかんしつ)仏断像はじめ貞享元年(甲子)当麻曼荼羅(たいままんだら)、狩野永梢・勝山琢眼筆花鳥山水襖絵(ふすまえ)五十面等があり、断像は仏像の内部構造を知る上で貴重な資料となっている。

なお、融通念仏宗とは平安時代の僧、良忍上人の創唱で、自他の念仏が融通(ゆうずう)して、一遍の念仏にも億百万遍の功徳が(こも)ると説く教え。

俗に「大念仏」といい、河内大和を中心として畿内に広がっている。』

※ 境内掲示より



『奈良市指定文化財

徳融寺(とくゆうじ)毘沙門堂(びしゃもんどう)

一棟 江戸時代

毘沙門堂(びしゃもんどう)は、寛永九年(1632)の建立と伝え、平面正方形の一間堂であるが、屋根はわずかに棟をつくり寄棟造(よせむねづくり)とする。

外観は和様(わよう)を基調として全体をよくまとめており、細部の意匠も優れた上質な建物であり、江戸時代初期の小規模な仏堂の好例としてその価値は高い。

平成八年四月十一日指定

奈良市教育委員会』

※ 境内掲示より


このお寺は他にも紹介したいものが多数あります。

次の機会に追加したいと思います。


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