
奈良県磯城郡三宅町但馬に鎮座する「杵築神社」です。
集落の東外れに神社とお寺(西道寺)がありますが、アクセス経路が解らずに北側の狭い道から廻り込んできました。

『但馬 杵築神社
出雲大社系の神社で祭神は須佐男命。
本殿右に雨乞いの神として信仰される多度神社、境内鏡池畔には三宅町最古の石造十三重塔(鎌倉時代末期1319年造立)がある。
三宅町教育委員会』
※ 境内掲示より

『三宅町 町・村の歴史
『大字 但馬
但馬大字は飛鳥川と曽我川の田園地帯に位置し、現在は西但馬・東但馬・但馬出屋敷併せて六十四戸からなる長閑な集落である。
「但馬大字にお宮さんすぎる 石の鳥居に藤の花」という俚謡が昔から伝えられている。
杵築神社境内にあったという、その藤も今はなく、鏡池のほとりにムクやカヤの巨樹が茂っている。
須佐男命を祭神とする、この神社の境内には元応元年(1319)に建立された、町内最古の石造十三重の塔が建っている。
また三宅町に残る三宅古墳群は、屯倉を管理した氏族の墳墓といわれているが、その中の一つ「天王塚」の円墳が東但馬に残っている。
三宅町には、但馬・三河・石見と国号地名のついた村が三つある。
古代、大和朝廷は、球と盆地の中央に位置するこの肥沃な土地を直轄地として開墾する為に、全国から使役として農民を集めて移住させたという。
「但馬の国(現在の兵庫県日本海側)の住民は、暮らし向きが楽でない為、阿弥陀さんを背負って国を出た。
そして「大和のへそ」といわれる但馬の村に住み着く。
その頃このあたりはよく川が氾濫して水つく低湿地帯であったので、皆で協力して少しずつ開墾し米作りに励んだ」という古老の話が伝わっている。
車や鉄道のなかった近世、大きな荷の輸送には舟が使われていた。
飛鳥川にも「但馬の浜」があった。
江戸時代、このあたりは「日焼け一番 水つき一番」といわれ、米作りの際いつも用水不足に悩まされていた為、綿や菜種という日照りに強い作物の栽培が盛んに行われた。
これらは「但馬の浜」から船積みされ大和川を下って大坂へ、そして江戸へ運ばれたという。
日本書紀の垂仁天皇の条に「田道間守三宅連の始祖となり」の記述があり、天皇が常世の国に田道間守を遣わして橘の実を求めさせた。という有名な話がある。
古代、田道間守がこの但馬の村にすんでいたとしたら…。
万葉集にある「三宅道」とともにロマンをかきたてられるお話しである。』
※ 境内掲示より

『三宅町歴史遺産
杵築神社の十三重石塔
平成十六年十二月十五日
鎌倉時代元応元年(1319)
石材は花崗岩、高さ約 350cm、基礎・初軸・屋根の各部材も揃い屋根の一部に欠損があるものの、保存状態は良い。
相輪部は欠損しているが当神社に隣接する西道寺の本堂右側の五輪塔の宝珠に代用されている。
屋根の軒反りは両端で反り上がり、軒裏に一重の垂木型を造り出す。
塔身の初軸には月輪に金剛界四佛の種子を薬研彫され、屋根の軒反りと共に鎌倉時代の特徴を表している。
基礎は無地で東側一面に
奉進常福寺
●●●長徳
右為二親息災
元応元己未七
大願主沙弥信仏
と刻銘がある。
元天理市庵治の常福寺に建っていたが明治初年の廃仏毀釈で廃寺。
平成十六年十二月 三宅町教育委員会』
※ 境内掲示より

『多度さん
雨乞いの神で、村人が神社に集まり般若心経を唱え、神殿を引き出して手桶で水をかけ「おうこ」をつけてこれをみこしのように四人でかつぎ、「雨たんもれ、たんもれ」などと鉦や太鼓をたたいて村内を廻って雨乞いをしていた。
三宅町教育委員会』
※ 境内掲示より
境内に説明書きが多いことは非常に嬉しいですね。
土地勘が無く背景も解らないので、完全に理解できるとは言えませんが、読んでいると様々な情報が入ってきます。
初訪問の地ですので私自身が何処に位置しているのかも怪しい所です。