
奈良県吉野郡東吉野村鷲家にある「維新の魁に散った 天誅義士の足跡を訪ねて」です。
初めて訪問したときは迷い込んだので伊勢街道 天誅組史跡公園・天誅組遺跡を見つけて「天誅組」って何だろうと思っていました。
なんせ歴史の授業は明治時代近くまで行っていませんでしたの記憶の片隅にもありません。
『維新の魁に散った
天誅義士の足跡を訪ねて
血路を、求め、足の郷道より銃口を待つ、鷲家口めがけて斬込み散っていった義士たち。
万魁の想いを胸に燃ゆる紅葉を血に染めながら彼等の脳裏によぎったのは、新しい世の中への各臣下そぼ降る時雨の心細さか。』
※ 境内掲示より

【文久三年(1863)八月十七日、大和の五条(五條)で挙兵した天誅組の志士たちは、十津川郷士離反などにあい、退路を求めて北上した。同年九月二十四日(現在の十一月五日)川上村武木を経由、足の郷越で東吉野に入った。】
石燈籠
天照寺 薬師堂
天誅義士記念碑
吉村寅太郎の墓
木津菩提寺 宝蔵寺(しだれ桜)
鷲家菩提寺 竜泉寺
道標
湯ノ谷墓地
【吉野離宮跡とも言われる丹生川上神社は、白鳳四年(675)に天武天皇によって創建された。祭神は水の神罔象女神が祭られている。】
【本殿境内にある石燈籠は弘長四年(1264)宋国人の名工伊行吉によって作られた名作(高さ 2.6m 、笠幅 73cm で重文)】
【小川の菩提寺の天照寺境内に建っている薬師堂は天正十二年(1584)に建立、釘を使わない茅葺寄棟造りの能舞台形式になっている(県重)】
【幕末の志士、吉村寅太郎は文久三年(1863)藤堂藩士が放った一発の銃弾に二十七歳の若さで最期をとげた】
文政十一年(1828)建立の石標で、高さ 128cm 江戸を示す道標としては日本最西端
村上万吉、藤本鉄石、森下幾馬、森下儀之助、福浦元吉、松本奎堂を祀る墓地
地図にはあちらこちらに死亡した地と書かれていますが、現実にその場所に何らかの痕跡があるのであれば拾ってみたいと思います。