(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2018年09月17日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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天理市楢町 楢神社〔楢大明神社〕


奈良県天理市楢町にある「楢神社(ならじんじゃ)楢大明神社(ならだいみょうじんしゃ)〕」です。

社叢(しゃそう)だと思って集落の細い旧街道と思える道に入り込んできました。

やはり神社が鎮座していましたので参拝することになりました。

立派な神社にたどり着きました。


『子授け 長寿招福の神

楢神社(ならじんじゃ)の由緒

御祭神

五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)

鬼子母神(きしぼじん)

― 省略 ―

御神紋

丸に違い柏

御鎮座

神護景雲元年(767) (称徳帝在位)

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神殿

桧皮葺き一間の春日造り

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御神徳

奇御魂(くしみたま)

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幸御魂(さちみたま)

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和御魂(にぎみたま)

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荒御魂(あらみたま)

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宝蔵物

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摂末社

境内摂末社 八幡神社(はちまんじんじゃ) 祭神 応神天皇(おうじんてんのう)恵比寿神社(えびすじんじゃ) 祭神

恵比寿須神(えびすのかみいつくしまじんじゃ)

苅郷摂末社 厳島神社(いつくしまじんじゃ) 祭神 市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)稲荷神社(いなりじんじゃ) 祭神 寅太丸稲荷大明神

上の宮摂末社(楢神社創始の宮)

神明神社(しんめいじんじゃ) 祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ)春日神社(かすがじんじゃ) 祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)

五柱神社(ごはしらじんじゃ) 祭神 五柱神(ごはしらのかみ)稲荷神社(いなりじんじゃ) 祭神 保食神(うけもちのかみ)

由緒

当社は、神護景雲元年(767)九月に称徳帝の奏聞を遂げ神託により宮山に創建された。

東大寺(とうだいじ)修二会に読誦する東大寺(とうだいじ)上院神明帳に和邇・楢・巻向とみえて和邇坐赤坂比古神社に続いてナラツヒコ(奈良豆比古)神社と読まれる神社や、また、延喜式神明帳の添上郡にみえる奈良豆比古神社(ならつひこじんじゃ)に比定する説もあり、当社の伝聞する説話に符合するのであるが、鬼子母神を合祀して二柱御神霊を祭祀するようになり楢大明神(ならだいみょうじん)(楢の宮さん)称え慕われてきた。

昭和三十一年に現在の楢神社(ならじんじゃ)に改称した。

そもそも、楢の地名は、東方三キロの和邇族の拠点と認められる地域にある西山古墳群の一つから「佐井寺(さいじ)僧道楽師 族姓 楢君 素止奈之孫 和銅七年(714)二月二六日命過」と記載された墓誌が発見された。

そこに見られる『大楢君』と称する族姓名に由来すると考えられる。

また大楢君素止奈は六百五十年頃の在世と推定出来、飛鳥時代中期斉明天皇時代の人物である。

従って楢の地に、英傑智謀の誉れの高い楢族の遠祖ナラツヒコ命を祭神としたナラツヒコ命神社を創建しても不思議ではないし、神仏混淆の時代であり、しかも、佐井寺(さいじ)在籍の僧侶を擁する氏族とすれば、鬼子母神(きしぼじん)をナラツヒコ命と合祀しても不思議ではない。

他方、ナラツヒコ命と五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を同一神とする説話は、日本書紀の一書に曰くとして取り上げられていて当社の伝聞にも符合する。

それ故に、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)令のおり、祭神がナラツヒコ命から五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)となり、神社名がそれにならって動いたとしてもやむ無いことであろう。

ナラツヒコ命、即ち、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)の智・仁・勇に秀でた英傑智謀のご神徳を尊び、崩御されたとする北陸の土地から慈照方便深く伐苦与薬の神であり、和光同慶の眼を開き給もうて小児を愛し万民撫育の慈愛の御神徳の高い鬼子母神(きしぼじん)をお迎えして合祀し、二柱の御神霊を併せて楢大明神(ならだいみょうじん)として祭祀したのである。

爾来、大明神の奇・幸・和・荒御魂の御神徳に対する人々の崇敬は弥が上にも高まり、中世から近世に当社が広く人口に膾炙したのである。

その盛況ぶりは、奉納された玉垣や灯篭に刻まれている氏名が県内一円は云うに及ばず畿内一円に及ぶことからも推測されよう。

中でも、大阪長堀の商人伊丹屋政介の奉納した神功皇后が応神天皇を竹内宿祢に預けて出陣される様子を描いた県下屈指の大絵馬、笠置の酒造家大倉一族、大阪屋一族等の崇敬者が奉納した大灯籠等に加えて弘化三年に大阪島内南畳屋町山田屋善七倅楢吉が世話人になり狛犬彫士高松彦四郎、妻ことによって寄木彫りの狛犬を奉納していてまた、八代目市川団十郎が厚い信仰を寄せていて弘化五年(1848)神井に「ならの葉の広き恵み神ぞとは、この三益井を汲みてこそ知れ」の和歌と一族の男七人、娘五人の名前と桝三重ねの家紋を刻んだ井筒を寄進している等の事績から頷けよう。

更には、文久二年(1861)には春日大社(かすがたいしゃ)の五十二次造営に当たり神殿の払い下げを受ける等御祭神のご神徳の高さが伺い知ることが出来る。

明治以降の治乱興亡の時代にあって常に万民を慈しみ、健やかな子供を授け、育て給うて幸せな恩頼を蒙らしめ給うとして、氏子崇敬者の畏敬の的となっている。

御祈祷

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定例祭

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毎月十三日 月次祭』

※ 神社リーフレットより


この周辺には再訪することになりそうです。


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