(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2016年08月25日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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奈良市興ケ原町 興ケ原氏に就いて


奈良県奈良市興ケ原町にある「興ケ原氏に就いて」です。

柳生の郷から大きく南へ回り込んで南下していくのですが、布目川に沿って桜の木が並んで道路端に植わっているので、桜の花の咲く頃に来るかと思ったのですが、何やら文字を書いた立て札が目に入りました。

地名と同じ氏の支配者について書いてあるようですが、個人的には意味がよく呑み込めません。

私の興味をひいたのは、名張からやって来たという事で、名張の方が開けていたのかなという疑問です。


興ケ原氏に就いて

嵯峨源氏渡部党の末孫の興ケ原氏が室町時代中頃の永享年間に伊賀の名張から来て、この地に土着して近隣の村々を所領し、初め桃香野、大徳、興ケ原の三ヶ庄を領した。

後に月瀬、高尾、田山を加う。

天文、永禄の頃に興ケ原遠江守助豊という人があり、その子若狭守助秀は後に、豊臣秀長に仕えて千石余りを領した。

助秀の妹は柳生但馬守宗厳に嫁して春桃御前と言われ、五男四女を産む。

五男は即ち厳勝久斎五郎右衛門こと但馬守宗炬である。

宗炬は一万二千五百石の大名となった。

そればかりか惣目付と言う重い役目になり、将軍家の兵法師範となった。

十兵衛三厳や飛騨守宗冬はその子にあたる。

興ケ原次郎四郎助勝は助秀の子で慶長十六年豊臣秀頼に仕えて奥方千姫付を命ぜられ千二百石を賜った。

元和元年五月大坂夏の陣に力戦し、七人力あったのでよく強弓を引いて徳川勢をなやましたが二月七日城が陥ちて浪人となる。

十兵衛三厳の代に至り柳生家に仕え、その後も子孫代々柳生家に仕え十五石を給せられ徳川末期に大河原へ転住した。

興ケ原氏系統図より

柳生観光協会 興ケ原自治会』

※ 境内掲示より


どういうリアクションが良いのか良く解りません。

桜の季節に再訪問して写真を追加したいです。