(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2016年06月14日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


xHOTZONE Go to xDataBase viewhalloo Tips p2pzigzag p2pzigzag hrkz p2pzigzag Go to Home evtcal reporter2

奈良市興ケ原町 庄屋庄七顕彰碑


奈良県奈良市興ケ原町にある「庄屋庄七顕彰碑」です。

布目川に沿って道路が大きく曲がっている地点に何やら石碑が立っているのに気が付いていたのですが、駐車余地が殆どなく大きくカーブしているので写真を撮る機会がなかなか作れませんでした。

通行量も少なかったので少しばかり離れた場所に駐車余地を見つけて徒歩で確認しに来ました。

時間の余裕が無いので取り敢えず写真を撮って家で確認することにしました。


庄屋庄七顕彰碑

徳川末期、興ケ原の多くの水田は布目川が流れているのに、この水を利用できず、日照り続きのときは水が無なく全く米がとれなかった。

この地はその頃幕府直轄で郡山藩の管理であったが、上納米の取立ては年毎にきびしく百姓は米を作りながら食べられず芋や粟などを食べて飢えを凌いでいた。

その頃北大和には三人の大庄屋がいて庄七はその一人であったが、これを救うためには米の増産より他にないと考へ、村の庄屋惣七などと図り計り布目川の上流3キロに邑地村から用水路をつくり、引水しようと藩に許可を得るために奔走し、邑地の庄屋孫右衛門らの協力で村人を説得し私財をなげ出して工事の完成に努力をつづけた。

しかし、この工事は当寺としては難工事で嘉永四年(1851)着工以来二年を要し、一応出来たが通水は目的に反し失敗となり庄七は地位も私財も剥奪され国拂の刑に処せられた。

然し庄七がいだいた社会に尽くす精神はいつの世でも我々の心を強く打つものがある。

この心掛けが住み良い社会をつくるのであり、この精神はいつの世でも我々の心を強く打つものがある。を讃え感謝の意をこめて作ったのがこの碑である。

碑の横に在る歌碑は庄七称賛歌「玉の緒も かけし願は井手の水 いにしえ人は真心のあり」と歌った釜谷新庵の作で蛙が上流邑地に向って水を求めるように見える。

庄七は水を欲しがったので誰言うとなくこれを「雨乞蛙」と呼んでいる。

碑面の大文字は東大寺管長 狭川明俊師の筆

庄屋庄七顕彰会』

※ 境内掲示より


なかなか再訪問しにくい場所です。