(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2014年09月22日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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宇陀市大宇陀芝生 八坂神社


奈良県宇陀市大宇陀芝生に鎮座する「八坂神社(やさかじんじゃ)」です。

宇陀市大宇陀本郷にある本郷の瀧桜〔又兵衛桜〕を訪問する途中で赤い鳥居が見えたので参拝の為に立ち寄りました。

拝殿の額に入った興味深い文書に釘付けになりました。

取り敢えず撮影して読み返してみたのが以下の内容です。


てんなはん

川向二組 椙角 治郎

私達氏子が長い歴史の流れので崇敬致しております八坂神社(やさかじんじゃ)には誰をお祠りしてあるのか、御神体は何なのか、又、古来「てんなはん」と親しんで来た由来は何なのか。

この様な素朴な疑問を私は持っておりました。

たまたま昭和五十五年の造営の年に私、川向二組の氏子総代になり神社造営に際し、仮宮より本殿への遷宮(せんぐう)(みやうつし)の儀に立ち会わせて頂きました。

真っ暗闇の中で宮司の「オー、オー」と言うお声と共に御神体が本殿へ運び込まれました。

私達は自分の目で御神体を拝むことは許されなかったのですが、御神体は神霊を封じ込まれた御神石だったと承っております。

― 中略 ―

水分神社(みくまりじんじゃ)八坂神社(やさかじんじゃ)の末社ではありませんが、三家宮司は高徳な方で清々会のいくつかの神社の宮司をも兼ねられておられたので、この会の会長をお引き受け頂いた様に承っております。

当日、水分神社(みくまりじんじゃ)へ集まった神社代表者は十数名だった様に思いますが、来賓として京都八坂神社(やさかじんじゃ)の管長、鈴木日出年宮司がお見えになっておられました。

― 中略 ―

次いで私は私達の「てんなはん」について、その由来をお尋ねしました。

三家宮司は、「てんなはん」は正しくは「天王さん(てんのうさん)」であって、方々にあるのですが、西山の天王さんは殊に有名で「てんなはん」と言えば、この近在では西山の八坂神社(やさかじんじゃ)と受け取られていますとの事です。

そして鈴木宮司から次のようなお話を承ったのですが、前述の通りのご性格をベースにご理解願いたいと思います。

インドでは古くから農業が拓け、農耕には牛が労働力として非常に重用されており、牛は貴重な存在として大切にされていた。

そしてその意を慰める為に牛の頭のした像を作り、それを拝むという風習があった。

釈迦が悟りを開き、仏教を説くに及んで、これを牛頭天王(ごずてんのう)として伝導して行った。

この神(仏)は農耕の神であると共に、水の神であり、疫病の神、厄除けの神としてあがめられた。

釈迦の説法を聞いた須達(別名―給孤独)という富豪がいていたく感激し、釈迦に帰依してその伝導のために道場を混流しようと思い、適地の所有者の祇陀に協力を求め、祇陀は土地と材木を寄進し須達の財と共に、この道場の完成を見た。

そして両者の名をとって祇樹給孤独園精舎と名付けた。

略して祇園精舎である。

そしてその教えは中国から朝鮮へと伝わって行った。

一方、須佐之男命はイザナギノ命が日向の橘の小戸の檍原で御禊(みそぎ)をされて生まれられた男神とされている。

その性格は粗暴で荒々しく荒さんでいたのでその名がついたとも言われている。

そしてその粗暴な振る舞いの為に根の国(島根県)出雲へ追放されるのだが、その●ノ川でクシナダ姫を助けて八岐大蛇を退治した話は有名である。

そして出雲地方を平定し「せいせいした」と言ったそうです。

「清々」という言葉はそこから生まれ、現在八坂神社(やさかじんじゃ)には清々講など清々のついたものが幾つかあります。

西山の八坂神社(やさかじんじゃ)の社務所内正面にも「清々之(これせいせい)」の額が掲げられてあるのでご覧下さい。

須佐之男命は助けた姫を妻(稲田姫命)として垣根を作って囲った。

そして、

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに

  八雲垣つくる その八雲垣を

の歌を作った。

これが日本最古の歌として古事記に紹介され、現在、毎年正月それにちなんで京都八坂神社(やさかじんじゃ)では「かるた」開きの神事が行われている。

その後、命は造船の為、先進国朝鮮へ渡るのだが、そこで牛頭天王(ごずてんのう)の教えに逢い心服、新羅牛頭山に登って厳しい修業をした。

土地の人々はこれを見て命を天王さんと呼び尊敬した。

私が子供の頃、八坂神社(やさかじんじゃ)の社務所に南原とか言う老人が住んでおり私達はこの老人をてんなはんと呼んでいたが多分こういう感じだったのだろうと思う。

命はその後、出雲へ帰り、その教えを説き、その教えは地方へと広がっていった。

平安時代に入って、山城国八坂郷から京都東山へと移り、そこに祇園精舎が建立された。

そしてその側に沙羅の木が植えられた。

沙羅の木は二本一対の喬木で双樹と呼ばれている。

釈迦は沙羅の木の下で生まれ、沙羅の木の下で成道し、沙羅の木の下で入滅したと言う故事かららしい。

成道即ち菩提を得るという意味から、この木を菩提樹とも呼ばれている。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

  沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

    (おごれる人も久しからず)

と平家物語に紹介されてから祇園は一躍文学的に有名になった。

平安時代には宗教のメッカとして近郷近在から善男善女を集め、大変な賑わいを見せた祇園は室町時代になるに及んで参詣の人達の為にお茶屋が出来、飲み屋が出来、芝居小屋が出来、祇園囃子や祇園遊び等生まれ、この界隈は次第に花町へ移行していった。

現在神社門前にある中村屋という旅館は四百年前二軒茶屋の中の一軒として創業したと伝えられる歴史ある老舗で、今もその名残を留めている。

世は江戸時代に入って祇園は本末転倒、信仰よりも歓楽のセンターとして栄えるのである。

幕末になって国学が●り、各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹くに及んで、明治四年祇園さんは八坂郷のえにしで八坂神社(やさかじんじゃ)と改名され、全国の祇園さん、天王さんもこの時八坂神社(やさかじんじゃ)八雲神社(やくもじんじゃ)に改名されたと言われる。

西山の八坂神社(やさかじんじゃ)もこの時に改名されたものであって、以前は天王さんであったらしい。

守護神は牛頭天王(ごずてんのう)で略して牛王神社(ぎゅうおうじんじゃ)

この牛王を因数分解すれば生と土になるので生土神社(うぶすなじんじゃ)とも言う。

京都八坂神社(やさかじんじゃ)には須佐之男命、稲田姫命と八柱の子神も祀られているとの事。

以上が鈴木宮司から承った話の内容ですが、牛頭ならとも角、牛頭を何故「ごず」と読むのかについても質問もれを致しましたが、ご容赦ください。

今年の元旦祭に神社にお参りし、正月気分のゆったりした中で集まられた方々に以上のようなお話をさせて頂いたところ文章にして貰いたいとのご要望があり、會て議長たる公人として知り得た知識を氏子各位にお伝えするのが私の責務とこころえ、菲才をも顧みずしたためたる次第、宜しくご理解下され神社により一層崇敬の念を深めて頂ければ幸甚に存ずるものであります。

平成六年正月』


なかなかの内容なのですが、私も疑問が湧きました。

牛頭天王(ごずてんのう)がインドから来たのであれば、何故、仏教ではなく神道に取り込まれたのか。

更に日本武命(やまとたけるのみこと)牛頭天王(ごずてんのう)が同一視されることに至ったのか。

少しばかり新たな疑問が湧いてしまいました。

但し、歴史ある古い神社は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)であったことがかなりの確率であって、由緒書きなどに記されていることは否めない事実です。


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