(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2011年08月20日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大和郡山市植槻町 植槻八幡神社


奈良県大和郡山市植槻町に鎮座する「植槻八幡神社(うえつきはちまんじんじゃ)」です。

由緒書き等はありませんが、近隣に平城京(へいじょうきょう)の時代に「観音寺」と「殖槻寺」があったという記録があるようです。

他のHPなどの情報では「東側」と記されているようですが、平城遷都1300年記念企画の「平城京(へいじょうきょう)の郡山 シリーズ5」によると「東北」となっています。

平城京(へいじょうきょう)の郡山シリーズ5

平城京(へいじょうきょう)平城京(へいじょうきょう)>右京九条一坊大路が、東奈良口-西奈良口西町の間を真っ直ぐ南へ下り観音寺町にでます。観音寺町は五町四方の地で右京九条一坊の全坊を占めています。この地に奈良時代の古瓦が出土し、観音堂が現存することから、平城京当時の観音寺があったのでしょう。

この寺は(みことのり)により新羅船に乗って、入唐した留学僧の知(智)通が建立したとされます。塔もあったといわれます。

京内各地からこの寺の一切経を借用したとの記録もあり、朝廷から5年にわたって「食封(じきふ)一百戸」(農家百個分の農産物に相当する寺の収入)を授かっています。現存の観音堂には、珍しいナタ彫りの十一面観音立像(平安時代後期)が祀られています。

右京九条三坊の地、現在の植槻町に「殖槻寺」がありました。後進の観音堂が現在の「植槻八幡神社(うえつきはちまんじんじゃ)」の北側にあったらしく、奈良時代の瓦や土器も出土しています。

「正倉院文書」によると、天平勝宝五年(753)に「殖槻寺」の名が見え、「建法寺」とも称していたようです。「薬師寺から東大寺(とうだいじ)仁王会司(におうえし)に貸した仁王経は建法寺から借用したものだから返却せよ」とあります。天平神護元年(765)にも「東大寺(とうだいじ)から借出していた経典類を殖槻寺に貸した」との別の文書もあり、又貸しの様子が出ています。随所に藤原仲麻呂の名が見え、彼が関わっていたようです。和銅二年(1003)には祖父の藤原不比等が殖槻寺で維摩経(ゆいまきょう)を購読する法会を行ったとの記録もあり、藤原一族とのつながりの深い寺でした。

「薬師寺縁起」に薬師寺の鐘楼や鐘が焼失したので、長保五年(1003)に建法寺(殖槻寺)から鐘を引き取って鐘楼にかけたとあり、薬師寺に現存の鐘がそれです。また。本尊は応永(1394-1428)の頃、現在の植槻八幡神社(うえつきはちまんじんじゃ)の北東の小池から掘り出されたとの殖槻道場の記録があり、薬師寺講堂の弥勒菩薩がそれであると伝えられています。これらの事実から殖槻寺の衰えは長保(999-1004)頃からと見られます。』

なんとも言えませんが、歴史上の重要な地であったことは間違いないようです。


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