(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2017年12月04日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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東大阪市衣摺 衣摺顕彰之碑


大阪府東大阪市衣摺にある「衣摺(きずり)顕彰之碑」です。

地元の歴史を記したこのような碑はあるようであまり見かけません。

真偽のほどは別にして様々な情報が含まれていることから大きな意味を持つものであると思います。


衣摺(きずり)顕彰之碑

私達の郷土衣摺(きずり)は、弥生時代を初めとします。

そのことは衣摺(きずり)遺跡の出土品によって推定することができます。

日本書紀によるとこの付近一帯は日本の古い史跡「渋川の稲城(いなき)」のあった所で、物部守屋大連の邸宅跡であるとともに、守屋と蘇我馬子が仏教の興廃をかけて戦った古戦場でもあります。

守屋はここに稲城(いなき)(稲束を高く厚く積んだ砦)を築いて本砦としました。

馬子に用明天皇二年(587)諸皇子と共に、この稲城(いなき)を攻めました。

守屋は大榎の股に上って雨のように矢を射て応戦しました。

守屋の軍は強く、馬子の軍は再三敗北しましたので、厩戸皇子(聖徳太子)は白ぬるでの木で四天王を作り頭に戴いて全軍をはげまし守屋を攻めました。

守屋の軍は終に破れ守屋も矢に当り戦死しました。

勝利を得られた聖徳太子は、止むを得ぬ戦いのために亡くなった守屋を惜しんで、守屋宣氏の大榎に袖を摺りつけて落涙されましたので、この地を「衣摺(きずり)」と呼びれと記録(政野家文書)にあります。

また国宝四天王寺(してんのうじ)御朱印縁起には、衣摺(きずり)柏田(かしだ)足代(あじろ)など守屋の領地は四天王寺(してんのうじ)に施入したと書き入れています。

千四百年もの昔に、「衣摺(きずり)」の地名が実に明らかに記されているのです。

稲城(いなき)の跡は、衣摺神社(きずりじんじゃ)光泉寺(こうせんじ)とあり、大榎は脇芽が相つき生い茂り、その巨大な根株は大正初期まで存在していました。

このように由緒深い「衣摺(きずり)」であることを私達は誇りに思います。

同時に千四百年という長い歳月、幾多の天災地変や政変兵火や大戦戦火の激動の時期に遭遇しながらこの地を守り此の地の発展に尽力下さった祖先の方々の努力によって現在の「衣摺(きずり)」のあることを思い、感謝に堪えません。

このことは今後もゆめゆめ忘れてはならないと思います。

平成元年の新しい年を記念し、郷土の歴史を思い、祖先の偉業と威徳を偲び、精整世々に語り伝えようとこの碑を建立しました。

平成元年十月吉日

第七代長瀬村村長 奥田戌三郎 孫

奥田裕一郎 建之』

※ 境内掲示より

誰かこの石碑を読んでいるんでしょうか。

「聖徳太子」の存在の真偽はともかくその他の内容については全てが誤りという事ではないでしょう。