(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2016年02月14日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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堺市堺区宿院町西 千利休屋敷跡と椿井


大阪府堺市堺区宿院町西に鎮座する「千利休(せんのりきゅう)屋敷跡と椿井(つばきのい)」です。

事前に存在は解っていましたが、辿り着くのに少しばかり迷いました。

今やビルの谷間になっています。

訪問時は道路を挟んで向かい側は空き地になっていましたが、そう遠くない時期にビルが建つことは間違いなさそうです。


千利休(せんのりきゅう)屋敷跡

堺の豪商魚屋(ととや)の長男として生まれた与四郎は初め北向(きたむき)道陳(どうちん)に茶湯を学んだが、更に道陳(どうちん)の師武野(たけの)紹鴎(しょうおう)師事し、遂に「わび茶」を大成させた。

千与四郎は、茶名千宗易(せんのそうえき)といい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町(おおぎまち)天皇より利休(りきゅう)居士号(こじごう)を賜った。

また、壮年時には抛筌斎(ほうせんさい)とも号していた。

天正十五年(1587)十月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。

その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。

その後天正十九年(1591)二月秀吉の怒りをかい、京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月二十八日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。

この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井(つばきのい)が、また南宗寺(なんしゅうじ)には実相庵(じっそうあん)と称する二畳台目の茶席(塩穴寺(しおあなじ)より明治九年南宗寺(なんしゅうじ)に移築、第二次世界大戦で消失昭和三十五年七月復興)がある。

堺市』

※ 境内掲示より



椿井来由記

この地は、江戸後期から明治中期までこの場所で酒造業を営んでいた加賀田太郎兵衛が居住していた場所です。 そしえかつては千利休の居宅や侘た庵のあった場所でもあります。 「椿の井」という利休が産湯をつかったという井戸があり、ここに加賀田翁が居士を偲んで利休好みの茶室を建て、大徳寺の大綱和尚(大綱宗彦・大徳寺四百三十五世)を迎えて茶室開きをしたとき、和尚は利休の昔を懐かしむ心の茶室の銘として「懐旧」と名付け、利休居士にちなむ茶蹟としました。 この茶室は昭和の戦災も免れて、今京都の地にありますが、井戸のみここに残され、いまなお清水が湧き出て利休居士を偲ばせています。 このたび、桃山時代、千利休により再建された大徳寺山門(金毛閣)の昭和大修理の際に出た古材を用いて井戸の屋形を建て、そこに大綱和尚の遺墨「懐旧」を刻んだ扁額を掲げて、ここにその遺芳を伝えることとしました。 昭和五十三年春 大徳寺末孫比丘 立花大亀(五百十一世)記』

※ 境内掲示より


「千家」といえば未だに茶の家元としているようですが子孫なのでしょうか。

知識がないので解りません。


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