(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2013年02月24日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大東市野崎 戸森山 専應寺(専応寺)


大阪府大東市野崎にある「戸森山 専應寺(せんのうじ)(専応寺)」です。

野崎観音(曹洞宗 福聚山 慈眼寺(じがんじ))の南西方向に位置しています。

今日は近鉄奈良線の石切駅から辻子谷を登って「興法寺」から「生駒山麓公園」経由で自宅に戻るつもりが、生駒縦断道に入り込んでしまい阪奈道路を生駒登山口から下って龍間経由で同じく野崎に鎮座する寳頭神社(ほうとうじんじゃ)経由で下ってきてもうくたくたです。

とっとと、野崎の駅に向かいたいのですが、この立派なお寺に出会ってしまいました。

JR野崎駅に近い参道に石標には、「二十四輩 第廿二番 戸森山 専應寺(せんのうじ)」と刻まれています。

二十四輩(にじゅうよはい)」とは、

『親鸞聖人二十四輩とは、親鸞聖人の有力な二十四人の弟子ということ。この二十四人の制定には四つの説がある。
①親鸞聖人の選定。親鸞聖人が関東から京都に帰るとき、浄土真宗の教えの正統を守っている 二十四人を選び、将来の関東での教化を託した。
②親鸞聖人の孫、如信上人の選定。文永九年(1271)、京都東山に聖人の廟所を建てるとき、奥州にいた如信上人と直弟二十四人が上京し、その時如信上人が二十四人を選んだ。
③覚如上人の選定。元弘元年(1331)、覚如上人が関東におもむき如信上人の三十三回忌を勤めたとき集まった直弟の後裔二十四人。
④覚如上人が独自で選定した。本願寺教団の他教団へのアピールのため。

二十四輩選定の当初は一人一ヶ寺に定めたが、子孫の分流、戦火による退転、再建などにより二十四輩寺院が諸国に分散し、現在では二十四輩とする寺院が百ヶ寺以上ある。しかし、「二十四輩会」が厳密に選別し二十四ヶ寺を定めた(○印)。しかし、この二十四ヶ寺以外にも直弟開基の重要な寺院や御旧跡は沢山ある。』

親鸞聖人二十四輩寺院と関東の御旧跡に説明されています。

いくら検索しても「大阪」や「近畿」の「二十四輩(にじゅうよはい)」はヒットしませんでした。


京極丹後守(きょうごくたんごのかみ)寄付(きふ)手水鉢(ちょうずばち) 由来(ゆらい)

今から四百年ほど前の元和年間の大坂城築城の際、京極丹後守(きょうごくたんごのかみ)高知(たかとも)(1572 - 1622)が野崎の山麓の石の切り出しの命を受け、その大名普請にあたって当寺に陣屋を設けました。

専應寺(せんのうじ)の東の山麓より石を切り出し、野崎の浜(外環状線のあたり)から舟に乗せて深野池(ふこのいけ)寝屋川(ねやがわ)(古大和川)を使って大坂城まで運んだと言われています。

数年の滞在のお礼として丹後守(たんごのかみ)宮津(みやづ)藩主(はんしゅ)京極(きょうごく)高知(たかとも)が当寺の太子堂回りの石垣と階段を積み、逗留(とうりゅう)の折の感謝の印として寄進されたのが、この手水鉢(ちょうずばち)です。

平成十八年三月

専應寺(せんのうじ)二十五世(にじゅうごせ)記之(これをしるす)

全ての漢字にかなが振ってありましたが、申し訳ありませんがブラウザーが「ルビ」に対応していないと読み辛くなりますので、読めそうな単語には振っていません。


なかなか興味深い寺院です。

ふらふらで足元も覚束なく野崎駅付近で、駅の方向を訪ねて駅前から改札を通してホームに電車が滑り込んでいるのが見えました。

そのまま「ピタパ」であったおかげで電車に乗り込むことができました。凄い!