(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2012年06月09日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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東大阪市東石切町 真言宗大本山 千手寺〔上之坊・光堂〕


大阪府東大阪市東石切町にある「真言宗大本山 千手寺(せんじゅうじ)」〔上之坊・光堂(ひかりどう)〕です。

石切神社参道に来る度に訪問していたのですが、レポートが遅れてしまいました。

参道脇の一対の石燈籠と地蔵様の道を南へ入ったところにあります。

東大阪市の史跡案内の地図にも掲載されていましたので記憶していました。

『別称 上之坊・光堂 真言宗大本山 千手寺 河内西国第十番霊場

〔縁起〕 今から千三百年程昔、笠置(かさぎ)山の千手窟(せんじゅのいわや)で修行していた役行者(えんのぎょうじゃ)は、不思議な「光り物」(神炎)に導かれてこの地に到り、岩上に草を敷き禅定(ぜんじょう)にふけっていると千手観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が諸神を従えて出現し給うた。そこで行者はここに一寺を建立して恵日山(えにちざん)千手(せんじゅ)寺と号し、光り物の不思議から里人はこの寺を俗に光堂(ひかり)と呼び、観音諸神居並んで出現し給うたことからこの地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。

平安時代の始め、弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)もこの寺に止宿され、童形をした青衣の善女竜王(ぜんにょりゅうおう)の出現に会われ、観音浄土(かんのんじょうど)の霊池に浸しおかれた霊木を託された。大師はこの霊木でもって等身の千手観音像を刻まれ当寺を中興された。

その後、程なくして堂舎悉く兵火によって消失し、千手観音は自ら深野池(ふこうのいけ)(鴻池(こうのいけ)新田付近に広がっていた大きな池)に飛び入り所在を失った。当地に来遊した在原業平(ありわらのなりひら)は一夜池の中より不思議な光の発するのを望見し池に沈む千手観音像を発見、池中より奉出し時の天皇に献上した。天皇は喜びたもうて、業平に命じて寺を中興し五院(ごいん)(上之坊(かみのぼう)中之坊(なかのぼう)下之坊(しものぼう)北之坊(きたのぼう)南之坊(みなみのぼう))を建立し給うた。在原業平(ありわらのなりひら)没したとき、堂の右に公のために(びょう)を築き、生前愛玩の遺品を納めたと伝えられている。

〔沿革〕 この寺は、京都から金峯山(きんぶせん)(吉野)や葛城山(かつらぎさん)に至る山伏の山林修行の道筋にあたり、生駒山地一帯は「葛城北峯(かつらぎほっぽう)宿(しゅく)」とよばれる修験者(しゅけんじゃ)行場(ぎょうば)であった。そのようなところからこの山地にある古寺はたいてい役行者(えんのぎょうじゃ)開創の伝説を持っている。

また、この寺の所在する地を大字山添(おおあざやまそえ)と称し、かっては山と里の境目にあって、田畑の方策を守る水の神(善女竜王(ぜんにょりゅうおう))の霊地として里人の信仰をうけていた。風神雷神を従え雨を司り穀物の稔りを守る菩薩として、千手観音が本尊として祀られた故もあってのことであった。

当寺の本堂を光堂(ひかり)と呼んでいるが、光堂(ひかり)とは浄土往生(じょうどおうじょう)を願うために建立された内陣(ないじん)一間四面(外観三間四面)の小堂のことで、四方に美しく沈む夕陽を拝し極楽浄土に想いをはせる日想観(にそうかん)の道場であった。いくたびかの建て替えを経て、現在の本堂は昭和五十九年の再建になるもので、奥に金堂の遺構を伝える本堂を置き、前に礼堂(らいどう)をとりつけた鎌倉時代様式の和様(わよう)を貴重とした建造物である。本堂北隣の入母屋(いりもや)の堂宇は今は護摩堂となり、不動明王(ふどうみょうおう)(ふどうみょうおう)を安置しているが、かっては開山堂(かいざんどう)と称し近くは役行者(えんのぎょうじゃ)を本尊としていたが、その昔は在原業平(ありわらのなりひら)公ら開山の肖像を祀り遺品を納めた御影堂(みえどう)((びょう))であったと考えられる。光堂(ひかり)御影堂(みえどう)の二堂が一対となり中興開山の菩提を末永く祈念する所でもあった。かって境内には鎮守(ちんじゅ)熊野(くまの)権現社(ごんげんしゃ)大将軍(だいしょうぐん)天満宮(てんまんぐう)子日(ねのひ)権現社(ごんげんしゃ)等があって小規模ながら中世寺院の面影を伝えていた。

江戸時代には、生駒宝山寺の湛海(たんかい)和尚(おしょう)正法律(しょうほうりつ)復興の高僧慈雲(じうん)尊者(そんじゃ)、またその高弟達が来宿来住し、それらの人たちの遺品も今に伝えられている。

〔寺宝〕 本尊 千手観音立像 (東大阪市指定有形文化財)

高さ190cmに達するカヤ材寄木造(よせぎづく)り、四十二()の千手観音で、南北朝時代正平十二年(1357)南都興福寺(こうふくじ)大佛師康俊(こうしゅん)とその子康成(こうせい)の建立になる。康俊(こうしゅん)は運慶六代の孫と自ら称し、康成(こうせい)とともに奈良を中心に活躍した。作品も比較的多く、代表的なものとして奈良般若寺(はんにゃじ)文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)像がある。この観音像は法眼(ほうげん)康成(こうせい)が中心となって造像したものと考えられ、像の胎内(たいない)には「正平十二年九月六日 南都大佛●(師) 法眼(ほうげん)康成(こうせい) 子息康葉 舎弟円賢」とあり、さらに願文並びに僧俗あわせて百五十名以上の結縁(けちえん)交名(こうめい)が墨書きされている。また頭部内面には「故法眼(ほうげん)康俊(こうしゅん) 興福寺法眼(ほうげん)康成(こうせい)-南都大佛師 子康葉 同円賢 延文二年一月十八日」の墨書がある。康俊(こうしゅん)はこの前後に法印(ほういん)となっており、以後にも作品を残しているので、銘文中の故法眼(ほうげん)康俊(こうしゅん)とは「もとの(故)法眼であった康俊(こうしゅん)」の意味ではないかと推察される。作風は力強く慶派(けいは)の終末期に作品としては後作であり、また墨書銘の学術的史料価値からみても府下有数の貴重な彫像である。

その他の寺宝 宝山湛海(ほうざんたんかい)不動明王(ふどうみょうおう)(ふどうみょうおうぞう) 二体(大阪府指定文化財)、密教(みっきょう)法具(ほうぐ)四点

絹本(きぬほん)着色(ちゃくしょく)不動明王(ふどうみょうおう)(ふどうみょうおうぞう)(共に東大阪市指定有形文化財)、伝在原業平(ありわらのなりひら)(石造五輪塔-南北朝時代)、など多数の寺宝を蔵している。

弁天塚古墳(べんてんづかこふん) 本堂裏に所在する。六世紀後半に築かれた横穴式(よこあなしき)円墳(えんふん)、全長9mをこえる規模の大きい片袖式(かたそでしき)の石室で、玄室(げんしつ)内には数体の追葬(ついそう)が認められ、浅道(せんどう)閉塞部(へいそくぶ)には「ことどわたし」を示すかとおもわれる遺物が破砕された形で見つけられた。寺の縁起には功徳天洞とも弁才天の洞ともみえ往昔には三古墳が一群をなし、この周辺には三群九基おそらく三十基ほどが一つの古墳群を形成していたものと思われる。神並(こうなみ)古墳群中の一支群である千手寺古墳群の唯一の遺構。

主な奉安の諸尊 本尊千手観音 不動明王(ふどうみょうおう) 如意輪観音 愛染明王 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

毘沙門天 弁財天 聖天 役行者 弘法大師 在原業平公 菅原道真公』

本堂裏に古墳があったことは気がつきませんでした。現地で説明書きを読まなかったので残念です。

いずれにしろ、再訪する機会は何度でもありそうなので、その時に見られれば嬉しいのですが。

石切大仏が綺麗になっているという情報で訪問して良かったと思います。


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