(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2011年11月09日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


xHOTZONE Go to xDataBase viewhalloo Tips p2pzigzag p2pzigzag hrkz p2pzigzag Go to Home evtcal reporter2

大阪市北区曽根崎新地 曽根崎川跡


大阪府大阪市北区曽根崎新地にある「曽根崎川跡(そねざきがわあと)」です。

以前にこの辺りに訪問したときに何か碑があるなとは思っていたのですが、まさかの思いでいっぱいです。

本当は『堂島薬師堂(どうじまやくしどう)』を探しに来て発見できずに、再訪したのですが、次回に譲ることになりました。

曽根崎川跡(そねざきがわあと)

曽根崎川跡は、かつて堂島川から分かれてここから少し南よりのところを東西に流れ、俗に蜆川(しじみがわ)ともいわれていた。

元禄元年に川村瑞賢がこの川を改修してから堂島新地・曽根崎新地が開かれた。

そのころ新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々のつどうところとして親しまれ、このあたりからは北野や中津の田畑越しに北摂の山々が遠望でき夏の夕べには涼み舟がこの川からこぎ出たという。

近松門左衛門の作品には堂島新地・曽根崎新地を舞台にしたものがあり、なかでも「心中天網島(1720年作)」の一節、名残の橋づくしには当時曽根崎川にかけられていた難波小橋・蜆橋・桜橋・緑橋・梅田橋の名がたくみに取り入れられている。

しかしこの曽根崎川も明治四十二年(1909)の北の大火後に上流部、ついで大正三十三年(1924)には下流部が埋立てられ、昭和20年(1945)の戦災でこのあたり一帯は消失したが、今日では北の新地としてにぎわいをとりもどしている。

昭和五十一年 大阪府』

大阪駅の南側に位置する大阪梅田のダイヤモンドシティと呼ばれている一帯よりも更に国道2号線を渡った南側になります。

この辺りは地下鉄工事の陥没事故があったあたりの南側になります。

梅田が発展する以前の賑わいを髣髴(ほうふつ)とさせる文章ですが、肝心の『堂島薬師堂(どうじまやくしどう)』は未発見でした。

桜橋の堂島アバンザの敷地内に建っていた少し変わった建造物が目的の『堂島薬師堂(どうじまやくしどう)』でした。

「堂島」の地名の由来も『堂島薬師堂(どうじまやくしどう)』の由来に記されています。