(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2010年08月16日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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南河内郡太子町太子 史跡源義家の墓


南河内郡太子町太子の「史跡 源 義家(みなもとのよしいえ)の墓」です。

羽曳野市壺井に鎮座する「壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)」の台地に驚いていたのですが、史跡 源氏三代(げんじさんだい)の墓もおなじような台地の上にあります。

しっかりと見落とさないようにしましょう。

『国指定史跡源 義家(みなもとのよしいえ)の墓【1039 - 1106】

源義家は父頼義(よりよし)、母平直方(たいらのなおかた)(むすめ)の長男として生まれた。

七歳の時、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で元服し八幡太郎(はちまんたろう)と名乗った。

前九年の役の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。

永保三年(1083)には出羽(でわ)豪族清原(きよはら)の内紛が起こるが、寛治元年(1087)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)

この功績から、百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。

また、永徳二年(1098)武将ではじめて院への昇殿殿(でん)(殿上人(でんしょうにん))を許された。

晩年、康和三年(1101)七月、次男対馬守義親(つしまのかみよしちか)が反乱、また三男の義国(よしくに)が嘉承元年(1106)六月に事件をおこすなど義家の中央官界での地位が危ないものになっていった。

最後は嘉永元年(1106)七月、京の邸宅で死去し、この地に葬られた。

羽曳野市』

史跡 源 頼信(みなもとのよりのぶ)の墓」と「史跡 大僧正隆光(だいぞうじょうりゅうこう)」は台地を上がった直ぐにありますが、「史跡 源 義家(みなもとのよしいえ)の墓」は奥のビニールハウスの向こうになります。

せっかくここまで上がってきたら忘れないで訪問しましょう。

ちなみに「史跡 源 頼義(みなもとのよりよし)の墓」は、「史跡 通法寺(つうほうじ)」の中にあり東の橋に立っている石碑の説明文の「史跡 源氏館(げんじやかた)」は、実際は羽曳野市壺井に鎮座する「壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)」ではないかと推測されているようです。

歴史が凝縮されているようです。