(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2010年08月12日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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南河内郡太子町太子 史跡 源頼信の墓


南河内郡太子町太子の「史跡 源 頼信(みなもとのよりのぶ)の墓」です。

<p>羽曳野市壺井に鎮座する「壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)」の台地に驚いていたのですが、史跡 源氏三代(げんじさんだい)の墓もおなじような台地の上にあります。

しっかりと見落とさないようにしましょう。

『国指定史跡源 頼信(みなもとのよりのぶ)の墓【968 - 1048】

源頼信は、清和源氏の家系である満仲(みつなか)の三男として生まれた。

二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原道家や道長に仕えた。

特に、長元元年(1028)に勃発した平忠常(たいらのただつね)の乱の際には、追討使(ついとうし)平直方(たいらのなおかた)にかわり反乱を鎮圧した。

この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の頭梁としての確固たる地位を築いた。

また、上野(こうずけの)常陸(ひたち)伊勢(いせ)美濃(みの)などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。

その時、河内国古市郡壺井里(現壺井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。

長久元年(1043)には、頼義(よりよし)とともに観音堂(のちの通法寺(つうほうじ))を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された。

永承三年(1048)、八十一歳の時この地で死去し、遺言により通法寺(つうほうじ)の巽(東南)の丘陵上に葬られた。

羽曳野市』

史跡 源 頼信(みなもとのよりのぶ)の墓」と「史跡 大僧正隆光(だいぞうじょうりゅうこう)」は台地を上がった直ぐにありますが、「史跡 源 義家(みなもとのよしいえ)の墓」は奥のビニールハウスの向こうになります。

せっかくここまで上がってきたら忘れないで訪問しましょう。

ちなみに「史跡 源 頼義(みなもとのよりよし)の墓」は、「史跡 通法寺(つうほうじ)」の中にあり東の橋に立っている石碑の説明文の「史跡 源氏館(げんじやかた)」は、実際は羽曳野市壺井に鎮座する「壺井八幡宮(つぼいはちまんぐう)」ではないかと推測されているようです。

歴史が凝縮されているようです。