(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2010年07月01日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大阪市北区天満 造幣博物館と桜の通り抜け Vol.2


実際には4月の上旬ですが品種によっては満開です。

造幣博物館までの間の三分の一は、「通り抜け」の開放を待たなくても楽しめることに気がつきました。

平成27年の通り抜けは、127年を向かえることになり、品種が127種、354本と説明されています。

通り抜けの由来

造幣局の所在地であるこの一帯は、昔から景勝の地で、春に桜、秋は月、夏は涼み船等四季折々のにぎわいを見せ、特に春の桜は有名で、対岸を桜の宮と呼ぶにふさわしく、この一帯に桜が咲き乱れていたと言われている。

造幣局の桜は、明治の初めに藤堂藩の蔵屋敷から移植されたもので、品種が多いばかりでなく他では見られない珍しい里桜が集められていた。

明治十六年、時の造幣局長遠藤謹助の「局員だけの観桜ではもったいない。大阪市民の皆さんと共に楽しもうではないか」との発案から満開時の数日間構内の桜並木を開放することになったが、花見客の混雑緩和のため一方通行としたので、いつしか「通り抜け」と呼ばれるようになった。

以来、大阪人のねばり強い郷土愛に支えられ今に続く花の里である。

さくらの名所百選の地に選定されたことを機に、ここに通り抜けの由来を記す。

平成二年春 造幣局長 ●● ●●』

欽明門(きんめいもん)」について

明治五年(1872)五月から明治天皇が近畿・中国地方に行幸される際、近代洋式貨幣工場の造幣局をご視察されることになり、六月四日京都御所(きょうとごしょ)を出発し、午後3時40分に造幣局の桟橋に到着され、上陸された場所にあったのがこの「欽明門(きんめいもん)」です。(現在地より北に約10mの地点にありました。)

造幣局の地に第一歩を踏まれ、造幣寮行在所(応接所のちの泉布観)に入られ、翌五日午前8時、旧正門から金銀貨幣鋳造工場内をご巡覧されました。』

「鉄柵」について

明治元年(1868)、当時大阪府知事であった後藤象二郎が、大坂場内に動物園を作るためにイギリスから輸入された鉄柵でしたが、中止になるというのを聞きつけた造幣局判事久世喜弘の進言により、造幣寮の取り締まりに必要不可欠のものであり、また、威厳保持のため、こえrを譲り受けたいと懇願し、井上馨の口利きで建設中の造幣寮に貰い受け、工場の周囲に張り巡らしたものです。

鉄柵の先端にある(大)の字に似た文字は、当時の「大坂」の【大】の字を形どったものと言われています。』

句碑「花の里塚」について

昭和三十九年(1964)四月に建立されたもので、本田渓花坊先生による

「大坂に 花の里あり 通り抜け」

の句が刻まれています。

この句は「通り抜け」の意を端的に表しており、全国で83番目の川柳句碑です。』

藤棚の「藤」の木について

この藤は、明治天皇が造幣局に行幸された際に、生け花として使ったものを「挿し木」して育てたところ根付いたものです。

樹齢はゆうに100年を越える枯木となり、毎年桜が散ったあと、白い可憐な花を咲かせて目を楽しませています。

(参考)明治天皇は、明治五年、明治十年、明治三十一年と計三回造幣局に行幸されました。

大阪市北区天満 造幣博物館と桜の通り抜け Vol.1


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