(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2010年06月26日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


xHOTZONE Go to xDataBase viewhalloo Tips p2pzigzag p2pzigzag hrkz p2pzigzag Go to Home evtcal reporter2

枚方市楠葉丘 貴船神社・史跡 継体天皇樟葉宮跡伝承地


枚方市楠葉丘に鎮座する「末社 貴船神社(きぶねじんじゃ)」と「大阪府指定史跡 交野天神社 継体天皇樟葉宮(くずはのみや)跡伝承地」です。

納得いく歴史でしょうか。

説明書きが3つあります。

内容は同じようなものであると思いますが、それぞれ微妙に違うので紹介しておきます。

『枚方八景樟葉宮(くずはのみや)跡の(もり)

「日本書紀」によると、越前の三国(福井県)から迎えられた継体天皇は、507年樟葉宮(くずはのみや)で即位したとされます。

石灯篭が並ぶ参道を進み左に曲がって、木造の鳥居をくぐると、拝殿の向こうに室町時代に修復された一間社流造(いっけんしゃながれづくり)桧皮葺(ひわだぶき)の本殿が見えます。

拝殿の右に森の中を奥へ進む道があり、これが貴船神社(きぶねじんじゃ)への参道です。

つきあたりの右手に自然石の階段があり、この小丘のあたりは継体天皇が即位したと樟葉宮(くずはのみや)跡と伝えられています。

また桓武天皇は延暦六年(787)、長岡京の南部の地を選び、郊祀壇(こうしだん)を設けて、父光仁天皇を天神として祀りました。

そうした聖域だけに大昔から原生林の姿を残し、かすかな木漏れ日は、訪ねる人を遠く古代に誘い込みます。

鏡伝池(きょうでんいけ)は、ここから南へ徒歩2分の「市民の森」にあり、古来観月の名所で、鷹狩りのあと鷹の姿をこの池水(ちすい)に映すのが慣わしだったといわれています。

これが交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)の起源とされています。』

『大阪府指定史跡

交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)

継体天皇樟葉宮(くずはのみや)跡伝承地

「日本書紀」継体天皇元年の条に「天皇行至樟葉宮(くずはのみや)」と見え、そこに即位せられた樟葉宮(くずはのみや)が樟葉と呼ばれたこの地域に営まれたと考えられており、、交野天神社境内の東北東に当る小高い丘の上にある貴船神社の付近が継体天皇樟葉宮跡と伝えられている。

村の産土神で穂掛神社とも呼ばれた貴船神社は、現交野天神社社殿のあたりにあったものを樟葉宮(くずはのみや)跡とせられていた丘に移したものと伝承されている。

大阪府教育委員会』

継体天皇樟葉宮(くずはのみや)跡伝承地

大阪府指定史跡

武烈天皇の死後、大連大伴金村(おおむらじおおとものかなむら)らによって越前の三国(福井県)から迎えられた男大迹王(おおどのおおきみ)は、五百七年樟葉で即位したとされます。

このとき王の知己(ちき)であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が密使として活躍しており、即位には、北河内を本拠地とする馬飼部(うまかいべ)の大きな貢献があったと考えられます。

継体天皇は、五年後に山背国筒城(やましろのくにつつき)(京田辺市付近)、十二年後に弟国(おとくに)(長岡京市付近)に移りましたが、大和国(やまとくに)に入ったのは二十年後のことです。

以上は「日本書紀」によりますが、「古事記」は、樟葉宮(くずはのみや)以降については何も記していません。

樟葉宮(くずはのみや)跡と伝えられるのは、枚方市指定文化財となっている貴船神社(きぶねじんじゃ)のある小丘あたりです。

なお、関白左大臣一条実経(かんぱくさだいじんいちじょうさねつね)(1223-84)は、次の歌を詠んでいます。

くらもじな ますみの鏡 かげそふる

くずはの宮の 春の夜の月 続古今和歌集(しょくこきんわかしゅう)

二千四年十月 枚方市教育委員会』

いかがでしょうか、楽しくなってきませんか。


関連情報レポートリンク

【枚方市 神社一覧】