(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2010年05月18日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大阪市西区安治川 史跡 安治川と河村瑞賢紀功碑


大阪市西区安治川1丁目の「史跡 安治川(あじがわ)河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)紀功碑」です。

此花おもしろトレイルルートの17番目のポイントの安治川の下を潜る「安治川隧道(あじがわずいどう)」を通って、西九条方面から南側へ来ました。

安治川(あじがわ)が人力で開削されたというのは教科書に掲載されていたような…聞いたことがあるような…、河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)の名は記憶にあります。

安治川(あじがわ)河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)紀功碑

もとの九条島(●攘島)はデルタ地帯で、たび重なる淀川(よどがわ)洪水のため、被害の絶え間がなかった。

そこで貞享元年(1684)二月幕府は治水の専門家である河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)に命じ、九条島を掘り割り、淀川(よどがわ)の水を一直線に大阪湾へみちびくこととした。

四年の歳月を費して、貞享四年に開削されたのが安治川(あじがわ)である。

はじめは新川(しんかわ)と呼ばれたが、元禄十一年(1698)この地が安らかに治まるようにとの願いをこめて、安治川(あじがわ)と改名された。

氾濫する淀川(よどがわ)の水を直接海に導入するバイパス的存在である。

この川の完成によって、同じく西成郡九条村であった一部が分かれて、現在の西九条になった。

河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)の紀功碑は、大正四年八月に建てられた。

又、この紀功碑は花崗岩で、大阪城築城の時、河底へ落ちた石を引き上げて利用したものと伝えられている。

安治川(あじがわ)が開削時に新川(しんかわ)と呼ばれていたのに対し元からあった川は古川と呼ぶようになった。

この川は昭和二十七年十一月、大阪府の防潮堤工事にともない埋立てられ、元の古川西端に、昭和三十四年一月大阪府によって「古川跡」の碑が建てられた。

平成十八年 安治川(あじがわ)第一新興町会』

河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)紀功碑 碑文の大意

大阪は古くから水上交通・陸上交通の要所として栄えたが、水害による被害は常に深刻であった。

そのため、仁徳天皇は河内湖と大阪湾を結ぶ堀江(現在の大川(おおかわ)と言われる)を開削して治水に努めたという。

しかしながら、大阪の治水を考える上でもっとも特筆すべき功績は、貞享元年(1684)、河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)によって行われた安治川(あじがわ)の開削である。

河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)は、江戸で頭角を現して幕府にその能力を買われ、大坂の治水工事に当たることとなった。

安治川(あじがわ)の開削工事に際しては、九条島を分断し、これによって安治川(あじがわ)を開いた。

工事はわずか二十日間で行われ、南岸にはこの時に出た土砂を盛り上げ、航路の目印となるようにした。

いわゆる瑞賢山である。

河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)は次に、中津川の分水工事を行い、本流である淀川に砂泥が溜まらないようにした。

また、土佐堀川(とさぼりがわ)の水を分配することで、堂島川(どうじまがわ)曽根崎川(そねざきがわ)の水流を円滑にした。

最後に大和川(やまとがわ)を浚渫して水害が起こらないようにしたのである。

これら貞享元年から行われた治水事業の功績については、新井(あらい)白石(はくせき)が「畿内治河記」に詳しく記している。

明治四十四年(1911)、これら河村(かわむら)瑞賢(ずいけん)の功績を称え、正五位の官位を贈ることとなった。

そこで時の府知事・大久保利武は有志たちと相談し、この紀功碑を建てたのである。

いま海外の大都市を見ると、いずれも河口に立地するという点で大坂と一致している。

異なるのはその規模だけである。

そのため、今まさに貿易を栄させ、これによって国を富ませるべきである。

大阪人はかねてより商業に長けている。

これに加えて陸海の交通の要所である地の利があるのであるから、智力・体力の限りを尽くして海外列強と競うべきである。

大正四年(1915)八月 文:西村時彦 書:伊藤清』

漢文の碑文を現代語に訳してくれています。