(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2010年04月07日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大阪市西淀川区大和田 住吉神社〔大和田住吉神社〕


大阪市西淀川区大和田に鎮座する住吉神社(すみよしじんじゃ)です。別称は、「大和田住吉神社(おおわだすみよしじんじゃ)」と呼ばれています。

地形図を見ていると川が相当入り組んでいた様子が伺えます。

大和田川というのは鳥居のすぐ前を流れていたような想像ができます。

大和田住吉神社(おおわだすみよしじんじゃ) 万葉歌碑の由来

濱清み涌うるはしみ神代より

  千船のとまる大和田の濱

    (読み人知らず)

万葉集にかいまみることのできる大和田を歌った古い和歌の碑である

昔この歌の大和田の地は、神戸市の和田岬に近くかつて大輪田の泊と呼ばれた付近をよんだものであるとの説があるがこれは謬りで、摂津名所図絵には、大和田が「御手村の西北にあり、此所尼崎に近くして河海の界なり、故に魚鱗多し、殊に鯉●という。なお浦浜古詠あり、兵庫の和田岬とするのは謬」とことわってある。

尚、土佐日記の一文を引用し、この歌をのせているので、この万葉碑の重要性を再認識したいものである。

判官松(ほうがんまつ)の碑の由来

平家物語巻第十一逆獪の記述によれば「元歴二年三月九郎大夫判官義経都をたって摂津国渡辺(今の堀江)よりふなぞろへして八嶋へすでによせんとす。

三河守範頼も同日都をたって摂津国神崎(今の西淀川)より兵船をそろえて山陽道におもむかんとす」とある

平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあい一時退避を余儀なくされ、陣を張つたのがこの地である。

その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の奇岩をし一本の松の苗を手植えした。

それが判官の松の由来である。

亦一説に義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の煩事を援助した。

喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。

どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の姿に成長した。

尚この庄屋に「鮒子多(ふした)」の性を与えたとも伝えられている。(大和田墓地に鮒子多(ふした)家の塚と墓石が現存している)

依頼この判官の松は年と共に天を突き沖を行き交う船人たちに航海の指針として親しまれた。

明治十年雷火の為に不幸にも消失の災にあい今はその大要を地元青年団が石に刻み後世に伝えている。〔参考:判官松(ほうがんまつ)伝承地〕』

『新千船橋の親柱

この石柱は大和田の街道(梅田新道)(俗に旧国道)にあって大和田と出来島の大和田川に架かっていた橋の橋名柱であります。

これを親柱と云います。

この親柱のあった橋は初代心斎橋として明治六年(1873)より明治四十三年(1908)迄の間、長堀川に架けられた大阪三番目の鉄橋で当時としてはモダンで浪速っ子の人気を集め、錦絵にも描かれています。

その後、境川橋の時代を経て昭和三年(1928)に新千船橋として利用され大和田川の埋め立てにより昭和四十六年(1971)撤去される迄、活躍し●●現在は鶴日九地西橋として残っています。

この親柱は丸四十三年間大和田の変遷を見つめ続け、その役目を終え、平成十年(1998)三月、この住吉神社に安住の地を得ました。

平成十二年(2000) 大和田郷土史会』

なんとも資料が多いと様々情報があって楽しくなります。


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