(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2009年12月10日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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堺市堺区 史跡 放鳥銃定限記


南海本線七道駅の西側駅前の北部の自転車預かり所前に「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)」とう説明書きのある石碑があります。

平成2年3月に七道駅の北側にある鉄砲町のザビエル公園から移設されてきたようです。

堺市のホームページに「放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)の碑」として紹介されてます。

現在は工事中で壁で覆われています。

放鳥銃定限記石碑

放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)

わが国に初めて鉄砲が伝来したのは、天文十二年(1543)のことです。

堺の貿易商人橘屋又三郎は、いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と射撃場を持ち帰ったと言われています。

また、紀州根来の津田監物算長も伝来の銃を持ち帰り、堺出身の刀工芝辻清右衛門に鉄砲を作らせました。

清右衛門は、豊臣秀吉の「根来攻め」のあと堺に戻って製造を続け、鉄砲鍛冶芝辻一門の祖となりました。

堺鉄砲の製造は、芝辻一門、榎屋一門など多くの鉄砲鍛冶によって国内最大の生産量を誇りました。

それとともに試射場も次々と作られ、このあたりにも江戸時代初期につくられた試射場が、昭和の初めまでその面影を残していました。

大正三年にこの付近で、運河の開削工事中に「放鳥銃定限記」と題した碑が、発見されました。

この碑には、寛文四年(1664)砲術家川名金右衛門忠重によって、「鉄砲は優れた兵器で、正しく扱えば命中確実である。

しかし、そのためには不断の習練が必要である。

小濱民部丞嘉隆(こはまみんぶのじょうよしたか)は文武両道を兼ね備えた人であり、堺の浜に射撃場を設け砲術家の養成や銃の試写を行うなど、大きな功績を残した。」と、恩師小濱丞嘉隆への讃辞と鉄砲試射場の由来が記されています。

この碑もまた、堺鉄砲の歴史を物語る貴重な資料です。

『運河掘削工事の発起人柳原吉兵衛氏は、この碑を後世に伝えるために高さ約3m、幅約2mの自然石をくりぬいた中にはめ込みました。長らくその後昭和十九年に堺市に寄贈され、長らくザビエル公園に保存されてきましたが、七道駅前整備に伴い平成2年に発見地に近い現在地に移設しました。

平成二年三月 堺市 堺市教育委員会』


と説明されているのですが、少し気になることがあります。

何故、失われたのか。

捜さなかったのか。

語り継がれることもなかったのか。

運河掘削工事で出てきたと言いますが、少し不思議な気もします。

歴史の解る重要な史跡であると思います。