(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2009年08月02日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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羽曳野市野々上 高野山真言宗 野中寺〔中之太子〕


羽曳野市野々上に存する高野山真言宗の野中寺(やちゅうじ)です。

以前に見舞いに来た時にこの交差点に差し掛かって、野中寺(やちゅうじ)の門などが見えて、ここは一体どこなのだろうかと思っていたところです。

何やら立派な外観であり、いつかは来てみたいと思っていたのですが、結構な距離を移動しましたので疲れ切っています。

野中寺(やちゅうじ) 史跡

野中寺(やちゅうじ)は、八尾市の勝軍寺(しょうぐんじ)大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)〕「(しも)の太子」、太子町の叡福寺(えいふくじ)(かみ)の太子」とともに「(なか)の太子」と呼ばれ、聖徳太子の造立と伝えられている。

飛鳥時代から白鳳時代に建てられた法隆寺(ほうりゅうじ)式の伽藍(がらん/rt>)配備を持つことで有名だが、南北朝の延元(えんげん)の戦い(野中寺(やちゅうじ)合戦)でこの伽藍(がらん/rt>)は消失した。

江戸時代寛文年間、慈忍恵猛律師たちにより再建されたが、享保年間に火災にあい、現在の方丈や勧学院は、その後再建されたものである。

建物以外にも、白鳳期の弥勒菩薩像、鎌倉期の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)像など、見るべきものが多い。

河内名所図会

河内ふるさとのみち

羽曳野市』

野中寺(やちゅうじ)金堂跡

金堂跡は、塔跡に対して東側に存在していた。

現在残っている土塔や礎石などから間口4間、奥行3間の南北に長い建物で、おそらく西面していたと思われる。

東面している塔跡と金堂跡とは向き合っていたことになる。

昭和六十二年に地中レーダーによる探査を行い、金堂の礎壇東端と南端を確認した。

一般的には塔が西にあり、金堂が東にある堂塔の配置は法隆寺(ほうりゅうじ)に類似するが、法隆寺(ほうりゅうじ)の場合、野中寺(やちゅうじ)のように堂塔が向かい合わず、塔と金堂とも南面している。

堂塔が向き合う形は川原寺(かわはらでら)にみられるが、野中寺(やちゅうじ)の配置とは金堂と塔が逆である。

このことから、野中寺(やちゅうじ)は飛鳥期に多く用いられた四天王寺(してんのうじ)の配置方法より新しく、法隆寺(ほうりゅうじ)より古い形態で、白鳳期に官寺に用いられていた川原寺(かわはらでら)の変形した配置方法が用いられていたと考えられる。』

この寺にも、どこかの古墳から移送したのでしょうか、石棺が展示してあります。

『ヒチンジョ池西古墳石棺

これは人を葬るための部屋で、二上山で採れる凝灰岩(ぎょうかいがん)を精巧に加工して、十個の石材を組み合わせて作られています。内法は長さ約2.4m・幅約1.1m・高さ約1mを測ります。

この中から銅製の釘、漆の膜や木の破片が見つかっていますので、漆塗木棺(うるしぬりもっかん)が安置されていたものと考えられます。

このように棺を納めるための石の部屋を、一般には横口式石槨(よこぐちしきせっかく)あるいは石棺式石室(せっかんしきせっかく)といい、河内や大和の飛鳥に分布する七世紀代の古墳にしばしば見られるものです。

ヒチンジョ池古墳も、この部屋の形態から七世紀終わりから八世紀初め頃(今から約1300年前)のものと思われます。

この古墳はここから南西に約1km離れた場所にありました。横口式石槨は、昭和21(1946)年に発見され野中寺(やちゅうじ)境内に移築されました。

その後恒久的な保護を目指して、平成6-8年(1994-1996)に野中寺(やちゅうじ)・大阪府・羽曳野市によって保存修理が行われました。

羽曳野市』

まだ他にも文化庁の説明もありますが、後ほど追加します。