(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2009年05月06日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大阪市北区天神橋 大阪天満宮


大阪市北区天神橋に鎮座する大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)です。別称の、「天満の天神さん」というほうが普通のようです。公式ホームページはこちらです。

夏の天神祭の人手には驚いてしまい、二十四年前に大阪に戻った年の天神祭以来近づいていないのですが、すごい人手でした。天満橋を天満橋駅から北へ渡る人の列に合わせて歩いていたのですが、妻と娘は私と息子の隣の列に並んだのですが列によって早さが異なるので、半分も渡らず断念しました。

子供が小さいときに連れていく祭りではないようです。氏子以外は拒否されているのでしょうか。

今では結構な規模持つ「天満の天神さん」の総研は意外なほど新しいものです。

大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)の歴史(抜粋)

大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)の創始(御鎮座)は、平安時代中期にさかのぼります。菅原道真公は、延喜元年(901年1月25日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰4年(901年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになりました。菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、2年後にわずか五十九歳でその生涯をとじました。(延喜3年/903年2月25日)その約五十年後、天暦3年(949年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座されました。』

大阪や河内の地域には菅原道真公の足跡のある神社はかなり多く、城東区諏訪に鎮座する諏訪神社(すわじんじゃ)には、『「菅公腰掛石」なんてものがあります。901年に筑紫の太宰権師として左遷配流の身となり、河内道明寺(どうみょうじ)の伯母君とのお別れのための道中で諏訪神社(すわじんじゃ)された際にこの「菅公腰掛石」でお休みになられた。』

なんて逸話も残っており、この『この腰掛石に触れると学業成就の願いが叶うと伝えられている。』となっています。

私は知らずに腰かけて説明書きを読んでいたのでバチガ当たっているようです。

なお藤井寺市道明寺には道明寺(どうみょうじ)道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)が鎮座しており、菅原道真公と縁が深いと、ここと同じように数多くの撫で牛が奉納されています。

また、学業成就の祈願をする方も数多く参拝していて、参集殿には「宅間流算術」が奉納されていて興味深いのですが一人できた時にゆっくりと見ることにします。

本社と呼ばれている「拝殿」と「本殿」の接続部には「登竜門」と呼ばれる門が左右にあります。

『登竜門

当宮は天保八年(1837)の大塩の乱で本殿及び多くの社殿が消失し、その後弘化二年(1845)に再建され現在に至っております。

その当時から東・西唐門西側に鯉に龍の図柄の金蟷龍がありましたが、戦前の金属の供出でなくなり台座を残すのみとなっておりました。

この度菅原道真公千百年大祭記念として篤志の方の奉納により昔ながらの図柄の蟷龍が再現されることとなりました。

屋根の部分は威勢よく跳ね上がる鯉胴体には龍が巻き上がり逆巻く水面から天空をめざし舞い上がろうとしている雄姿は一見奇異に見えますが、この唐門こそ登竜門そのものでありますというのも龍門は中国の黄河上流で鯉などがその下に集まり多くは登り得ないが登れば龍になるという故事に基づいています。

それが転じてそこを通り抜ければ必ず出世するといわれる関門の意となります。

平成壬午歳 初春 宮司 寺井種伯 識』

なんとも由緒ありげな説明に納得のできです。素晴らしいものです。

天満宮(てんまんぐう)はまだまだ続きます。


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【菅公聖蹟二十五拝霊場一覧】〔※確認中・廃絶〕


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