(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2009年04月16日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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藤井寺市小山 小山善光寺


藤井寺市小山にある小山善光寺(こやまぜんこうじ)です。

辛國神社(からくにじんじゃ)葛井寺(ふじいでら)から商店街を北へ進んで近鉄南大阪線の踏切を越えて約1km弱の場所にあります。

説明書きがあって門が開いていたので中を拝見することにしました。


小山善光寺(こやまぜんこうじ)

現在、浄土宗に属し、南面山無量寿院善光寺(なんめんざんむりょうじゅいんぜんこうじ)と称します。本尊は信濃善光寺(しなのぜんこうじ)と同じ一光三尊仏阿弥陀如来(あみだにょらい)(いっこうさんぞんぶつあみだにょらい)です。

寺伝によりますと、推古朝(7世紀初頭)本田善光(ほんだよしみつ)によってもたらされた仏像を本尊として、隆聖法師(りゅうしょうほっし)が城山古墳の南側(「善光寺屋敷(ぜんこうじやしき)」の名が残る。)に寺院を建立したということですが、おそらく渡来系氏族の津氏によって、今から約千三百年前の七世紀後半に建立されたことが出土軒瓦から推定できます。

その後、戦国時代の兵火によって三好氏と小山城と共に、諸堂消失して廃寺となりましたが、江戸時代初期の慶弔年間(1596-1614)に、宗珍法師によって現在の地に再興されました。

毎年、四月二十四日午後四時から本尊の御開帳があります。』


本田善光(ほんだよしみつ)が難波津から引き上げた一光三尊仏を信濃に持ち帰る途中、宿泊した丹比小山里で隆聖法師(りゅうしょうほっし)と知り合う。仏像があまりにも立派であったため、ともに祈ったところ仏像は二体に分かれた。そこでその二体を信濃と丹比小山の善光寺の本尊とした。(寺伝より)』

平成十一年三月三十一日

藤井寺市教育委員会』



『写経塔

抑々写経塔は、世界平和を護り、或いは祖先父母の菩提に資し、○は自己の福利を増進し、日々雑念の中に暮らすことの止むなき人々に暫く心を一境に止むる清閑を得、更には佛語に親しむ等の功徳あり。ここを以て自らの写経の○業の興隆を見るに至りしなり。

その起源を尋ぬるに、古え遠くして詳らかならねども古き時代より中国及び我国に浄為の盛んなりしことは文献の示す所なり。

この写経塔のお名号の筆者は江戸末期の三味発得の高層徳本行者なり。

塔中には当寺に奉納せられたる写経を納めて、その奇特を長く世に伝うるものなり。

昭和五十七年十月十日』



小山善光寺(こやまぜんこうじ)の縁起

当寺は、天正年間まで津堂城山古墳の後円部外側に接する小字名、善光寺屋敷址といわれる位置にあったが、天正年間織田信長軍の河内小山攻めの折、小山城と共に戦火をうけて堂宇焼失後、西誉宗珍によって慶長年間(江戸初期)になって現在地に移転再建されたものである。

この寺は面山無量寿院善光寺と称し、歴史上でも有名な本田善光(ほんだよしみつ)が信州に帰国の途中、難波の堀江で立派な仏像(一光三尊仏)を拾い、これを負うて帰国のみぎり、小山の里を訪れ小堂で宿泊したが住職の隆聖法師がその仏像を所望したけれども一体しかなく、そのため三日三晩にわたり二人で熱心に供養勤業をつとめたところ三日目の暁一光三尊仏が二体になったので一体を河内におまつりし一体を善光が信濃でおまつりして共に善光寺として諸人の帰依する精舎となって今日に至った。』


内容は市の教育委員会の元の文章でしょうが、なんとなく生き生きとしていると思う縁起が額にはいっています。

このお寺にも藤が咲くのでしょうか。

藤棚があるように思います。

どのくらい綺麗なのでしょうか。楽しみです。


P.S.

なかなか素晴らしいと感じましたね。

一見の価値ありです。

長野県の善光寺と同じ本尊であるという説明なのでそうであるとすれば、見られるだけ幸せです。


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