(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2009年04月11日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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松原市若林町 若林神社


松原市若林町に鎮座する若林神社(わかばやしじんじゃ)です。

拝殿に木札が掲げられており、板に墨書きの由緒書きがあるのですが、残念ながら読み取ることはできません。

文字の型が残ってるのですが、あまりに薄すぎて文字を判読する事ができません。残念です。

当然ですが、私の住んでいる河内平野の中央部付近は、『今米村(東大阪市)の中甚兵衛らは大和川の流れを堺の方へ変えるように江戸幕府に訴えました。松原市域など新流路にあたる村々は反対しましたが、宝永元年(1704)に柏原から藤井寺・松原・堺方面に流れる今の大和川がつけかえられて土地になったのです。』

『若林村は、人工川の誕生によって民家が川床となって田畑もつぶされ、村域は北と南に分断されました。それでも若林の人々は恵我村・松原市の歴史の中で結びつきを保っていましたが、北若林は近くに松原へ渡る橋が無かったことなどから、昭和39年に八尾への編入に踏み切ったのでした。』

このような記述からも分かると思いますが、歴史とは見る目を変えるとまったく逆の立場になってしまいます。

神社の記述は、『若林は中世史書に戦場として登場しますが、同地では若林1丁目に鎮座する若林神社が微高地の最高所にあたります。

江戸時代前半、延宝年間の「若林村絵図」に、同社は八幡宮とあり、今とは比べられないほど広大な境内地が森で囲まれています。 同地が小字「若林」であるうえ、鎮守の森が陣取場になりやすいことから、神社付近が戦略拠点にふさわしい場所だったのでしょう。』と紹介されています。

なんと、大和川が付け替えられる前までは、この拝殿と本殿の建つあたりが高い場所であったということであったということでしょうか。

深居神社(ふかいじんじゃ)の説明では、『この経緯もあって深居神社(ふかいじんじゃ)より分祀された若林神社(わかばやしじんじゃ)大堀八幡宮(おおぼりはちまんぐう)八幡神社(はちまんじんじゃ)津堂八幡宮(つどうはちまんぐう)津堂八幡神社(つどうはちまんじんじゃ)川辺八幡宮(かわべはちまんぐう)川辺八幡神社(かわなべはちまんじんじゃ)の祭神もおなじ品陀別命(ほんだわけのみこと)が祀られております。』となっています。


『建武4年(西暦1337年)に深居神社(ふかいじんじゃ)から分祀され創建される。江戸時代前半に今とは比べられないほど広大な境内地が盛で囲まれています。同地に小字「若林」がある上、鎮守の森が陣取場になりやすかったく戦略的拠点に適していることから、戦の際神社付近に陣取をし戦略拠点にする武将も多かったようです。 』

となっていますが、板書きには何が書かれて興味深いところです。板書きは以下のようにしか判別できません。

若林神社(わかばやしじんじゃ)

祭神 八○大菩薩、木○○命、○○

藤原○○作○入○

○…○

○…○乱

○…○神

創建は明らかではないが

明治五年に○…○村社に列せられる。

氏地は、谷林、北若林一円

祭日は、七月、十一月、十二月の各十五日

松原市教育委員会

郷土研究会』


残念です。なにか面白いことが書いてありそうで気になって仕方がありません。


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