(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年12月25日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大阪市都島区毛馬町 蕪村の碑


毛馬閘門(けまこうもん)」の上流側の堤防上に「蕪村の碑」が立っています。蕪村は1783年12月25日没と伝えられているそうなので丁度日が会いました。

『蕪村礼讃

碑面の

春風や堤長うして家通し 蕪村

の句は安永六年(1777)蕪村六十二歳の正月に出した春興帖「夜半楽」の中の「春風馬堤曲」の第二番目の句である。「春風馬堤曲」は蕪村が故園の毛馬に対する強い郷愁の思いをうたった異色の作品である。

「春風馬堤曲」は俳句漢詩それに和詩を交えた十八首から成るものであってそれは大阪からやぶ入りで毛馬へ年ぶりに帰る若い娘の気持ちになって蕪村自身の郷愁の思いを詠んだものである。

この曲の序で蕪村は故園の毛馬に昔から知り合いの老人を訪ねたように書いているがこの時蕪村は毛馬へ帰ったのではなかった。

のみならず蕪村は毛馬に生まれて幼年期少年期をすごして二十歳ごろ毛馬を離れて一度も毛馬へは帰っていないのである。京に住むようになってからは何度か大阪へきている。

ある時は桜の宮の近くまではきてはいるがついに毛馬へか帰らなかったが、京と大阪の往復には淀川の三十石舟を利用しているから舟の中からはるかに毛馬の堤や毛馬の家々をながめたであろう。

それだけに蕪村の心の中には毛馬へ帰るには淀川の昔の毛馬の渡船をわたるのであるがそうして毛馬の堤に立った時、毛馬の家々が遠くに眺められ故園に帰ったという気持ちが心の底からわき上がってくる。

その気持ちを詠んだのがこの句である。

蕪村はこよなく故園の毛馬を愛した人でありそれをまた誇りにしたのである。「春風馬堤曲」につけて伏見のある門人に当てた手紙に

馬堤は毛馬唐也
春風馬堤曲 則余が故園也

と毛馬が自分の故園であることを大にして告げている。その手紙ではまた「実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実状にて候」と「春風馬堤曲」をなした心境を伝えている。

この碑面の句はこのように蕪村の毛馬に対する深い郷愁をこめた句であるから、毛馬に合って蕪村を慕い蕪村を記念するにはまことに適当なものである。

この句を口すさむことによっていつまでも蕪村の偉大な実績と人柄をしのぶのである。このような人を生んだのは毛馬の大きな誇りである。

蕪村は、享保元年(1716)に毛馬で生まれたのである。姓は谷口と伝えられ後に与謝と改めている。幼名や通称はわからない。その生まれた家は毛馬のどの辺かと云うとそれも全くわからない。ただ、今の毛馬五丁目あたりの河川敷ではないか推測されるのみである。

蕪村は子供の頃はいつも毛馬の堤の上で遊んだものであったが、二十歳のころ毛馬を離れて江戸に下った。そうして早野巴人の門に入って俳諧を学んだ。

しかし六年後には巴人が殉したので蕪村は関東各地の巴人門の先輩をたよって漂白の生活をした。宰町または宰鳥と号していたが延享元年(1744)宇都宮で出した歳旦帖で、はじめて蕪村と号するようになった。

このような生活は十数年つづいたが宝歴元年(1751)三十六才の冬京に上った。これからは蕪村は宮津で四年ばかり滞在したり讃岐へ旅をしたこともあったが京で家庭生活を送った。

蕪村の結婚は四十三才ごろと推定される。妻の名はとも、くのと云う娘が一人あった。蕪村は天明三年(1783)十二月二十五日六十八歳でこの世を去ったのである。

墓は洛北一乗寺の境内にある。蕪村が生まれたのは芭蕉の殉後二十二年目である。芭蕉が唱えた蕉風俳諧も後継者がいないため全く色あせたものになっていた。蕪村が俳人として活躍した時は「芭蕉にかえれ」を目標とした。後蕪村は師巴人の夜半亭の号を継いで夜半亭二世をなって立杭した。

一門の人々は云うまでもなく他の多くの俳人達と互に提携して新しい俳諧の世界を開いたのである。蕪村一門の諧集には「其雪影」「此ほとり」「明鳥」「続明鳥」「桃李」「花鳥篇」「五車反古」などがあり、蕪村の著作には「夜半楽」の他に「新花摘」がある。

蕪村は俳人として大きな業績をのこしたが一面画家としても数多くの作品をのこしている。画家としては当時文人画の第一人者と云われた池大雅と並び称され、この大雅との合作の「十便十宜図」は国宝となり、その他にも蕪村の絵には重要文化財に指定されたものが何点かある。

蕪村の絵は重厚感のある山水図軽妙な人物画俳画などと分野が広く独特の新鮮な感覚が漂っている。また蕪村は絵においても毛馬を忘れていない。

宝歴九年(1759)ころの作品に「河南趙居」「淀南趙居」または「馬唐」と明らかに淀川南岸の毛馬やその堤を意味する落款を用いている。

また蕪村が終生使った「東成」は当時毛馬が属していた郡名そのままである。こうしたところにも蕪村の郷愁があらわれている。毛馬の人蕪村これは永遠にわれわれの誇りでなければならない。』

なかなか気合の入った顕彰文です。余程の思い入れがあったのでしょう。