(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年12月17日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


xHOTZONE Go to xDataBase viewhalloo Tips p2pzigzag p2pzigzag hrkz p2pzigzag Go to Home evtcal reporter2

寝屋川市仁和寺本町 仁和寺氏神社


寝屋川市仁和寺本町に鎮座する仁和寺氏神社(にわじうじかみしゃ)です。

佐太天神宮から津嶋部神社(つしまべじんじゃ)に向かう途中の仁和寺交差点に向かう途中に神社マークがありましたので訪問しましたが、寝屋川市の神社であるとは当初は気がつきませんでした。この周囲の地形図を持っていなかったために自分の現在位置を見失っていたようです。

仁和寺氏神社(にわじうじかみしゃ)

由緒

往古より、当社は白山権現を奉斎してきたが、応永の乱後、この地方が男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)の社領となったため、八幡宮(はちまんぐう)を境内に勧請した。

その後寛永十年、領主永井氏の勧めで菅原道真公をお祀りし、天満宮(てんまんぐう)と称するようになった。

延宝二年、淀川堤が決壊して社殿が流された際、この地区中央に再興された。

昭和六十二年八月不慮の災いに罹わりましたが、畏くも御神体は御安泰であり、○遠にも氏子崇敬者の格別の御奉賛を賜り平成元年九月吉日竣工、同年同月二十三日から二十四日に遷座奉祝大祭を斎行

祭日 例祭 十月十八日

それにしても境内地はかなり広大なじんじゃです。

仁和寺氏音頭を彫った石標と合祀されていた佐太神社(さたじんじゃ)から分祀し、遷座に人力を尽くした「東光治氏顕彰之碑」が建っています。

それによると昭和十八年八月二十五日に遷幸祭を執行し再興を完了したと刻まれています。

『仁和寺庄の古跡

仁和寺は、「にわじ」または「にわいじ」と呼ばれています。地名は、京都の仁和寺(にんなじ)の所領であったことに由来すると考えられます。

鎌倉時代の初期に後鳥羽・後高倉院の生母であった七条院が京都仁和寺(にんなじ)を管領(寺務を司る権利)したことによって、仁和寺庄も七条院領となり、のちに地頭職(地頭としての権利)は室町院(暉子内親王)へ寄進され、北朝方の持明院統の所領になりました。この時の「室町院御陵目録」を見ると、上仁和寺庄・下仁和寺庄の二つに分かれており、以後、上下二庄として史料に表れます。

南北朝時代に入って持明院統の花園上皇は歴応五年(1342)に妙心寺(みょうじんじ)を再興したとき、上仁和寺庄と下仁和寺庄の地頭職を妙心寺(みょうじんじ)に寄進しました。しかし、応永六年(1399)大内義弘が将軍足利義満に謀反を起こした応永の乱が勃発し、敗死した大内義弘と妙心寺(みょうじんじ)の住持拙堂が親しかったために妙心寺領は室町幕府に没収され事実上の幕府御料所となります。

江戸時代の仁和寺村は、延宝二年と享和二年(1802)に二回の大洪水があり、淀川の堤防が決壊しました。特に享和二年(1802)の決壊のときには堤防が百五間(約190m)にわたって切れたため、浸水は遠く現在の八尾市や大阪市生野区・平野区まで及びました。俗に「仁和寺・点野切れ」といわれている大災害です。

ここ、旧仁和寺村の氏神である仁和寺氏神社(にわじうじかみしゃ)の創建は室町時代の初期と伝えられ、もとは白山権現社でしたが、寛永十年(1633)永井信濃守の支配に伴い天満宮(てんまんぐう)となりました。延宝二年の堤防決壊時に社殿が流失してしまったため、現在の一に移されました。

寝屋川市』

寝屋川市の歴史の説明書きには感心します。


関連情報レポートリンク

【寝屋川市 神社一覧】