(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年11月13日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大阪市平野区喜連 式内楯原神社


大阪市平野区喜連に鎮座する式内楯原神社(たてはらじんじゃ)です。

なんとなく本日廻って来た中ではかなりの古社と感じられる神社なのですが、雑然と社があるので良く分かりません。少し暗かったのでうまく撮影できませんでしたが、絵馬殿のような建物には鐘がぶら下がっています。神社では初めて見ました。

カタカナ混じりの石碑文があります。ひらがなに直して記録します。


『式内楯原神社(たてはらじんじゃ)の由来

楯原神社(たてはらじんじゃ)は、延喜式内の神社で、位置は旧喜連村の寺町にある、昔の字楯原にあって、建御雷命(たけみかづちのみこと)大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀っていたが、後兵火に羅って、今の所に遷座し字十五の龍王社を合祀し、境内の別殿に祀って、奥の宮と称した、元和年間更に付近の天神社を合祀し後、○菅原道真を併祀したが、俗に天満宮とよび天神社と公称、いつしか本来の祭神は忘れられて菅原道真のみを祭神となす。

楯原の社名は別殿の奥の宮に移って、龍王社の祭神、赤留姫(あかるひめ)楯原神社(たてはらじんじゃ)の祭神と転じ、明治五年本社の天神社は社格を得○○○○に別殿の楯原神社(たてはらじんじゃ)は村社に列せられて○に○○並立の両柱となった、然るに神社合併の議おこり、明治四十年九月村社楯原神社(たてはらじんじゃ)、村社東西神社(旧東喜連村にあり、素盞嗚尊(すさのをのみこと)忍坂大中姫命(おしさかおおなかつひめのみこと)合祀)及び無格社春日神社(かすがじんじゃ)(旧東喜連村にあり、春日大神(かすがおおかみ))を天神社に合祀した。

かっつては由緒ある楯原神社(たてはらじんじゃ)の社名を没するを以って同四十三年十二月天神の東西春日の三社を楯原神社(たてはらじんじゃ)に合祀せられたるものが即ち楯原神社(たてはらじんじゃ)である。是より先明治四十年一月、神饌(しんせん)幣帛科供進社に指定せられて境内は四百六坪、本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、祭馬所、社務所などを有し、氏地は喜連全域であったが、昭和二十六年東喜連氏子一同の要望に依り東西春日の両社を同年八月七日元の東喜連に分離移転した、同時に地域氏子も分離した。

祭壇 夏祭 七月五日 例祭 十月十五日』


もうひとつ看板にも説明文があります。


『式内楯原神社(たてはらじんじゃ)

当社は、社殿では崇神(すじん)天皇七年の鎮座とされている古社で、延喜式内の神社である。

いにしえは、もとの字楯原(現在の喜連西一丁目、近畿電波管理局敷地)にあったが、兵火に遇って現在の地に遷座し、桓武天皇の時(西暦800年頃)字十五の龍王社を合祀し、境内別殿として奥の宮と称した。

さらに元和年間(1620頃)付近の天神社を合祀し、天神社と称するようになり、楯原の社名は別殿の奥の宮に移った。(現在の奥の宮には、十種神宝(とくさのかみたから)宮を摂社として遷座、日本最初の神宝で、十種の枝は大正三年内務省選定)

このため、明治五年、式内の楯原神社(たてはらじんじゃ)は社格を得ず、供祀の天神社が村社となる状況であったが、明治四十年、神社整理を機に現在の社名に改められた。

当社には、萬葉集にも詠われている息長家の碑が祀られている。

また、隣接の如願寺は、当社の宮寺であったが、明治維新後分離した。

祭神 武鷹槌大神(たけみかづちのおおかみ) 大国主命(おおくにぬしのみこと)

平野区役所』



『神宝十種宮略記

配祀神

布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)十種神宝(とくさのかみたから)】は天璽瑞宝十種(あまつしるしのみずたから)に籠る霊妙なる御霊成れます。

瑞宝十種は、謂ゆる沖津鏡(おきつかがみ)一つ、辺都鏡(へつかがみ)(辺津鏡)一つ、八握生剣(やつかのつるぎ)(八握剣)一つ、生玉(いくたま)一つ、死反玉(まかるかへしのたま)(死返玉)一つ、道及玉(ちかへしのたま)(道返玉)一つ、蛇比礼(おろちのひれ)一つ、蜂比礼(はちのひれ)一つ、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)一つにして【足玉(たるたま)が洩れています。】神代の昔、甕速日命(いざはやひのみこと)が天降り給う時、天つ神の(みことのり)をもって「若し痛む処もあらば、十種神宝(とくさのかんだから)をして甲乙丙丁異戌己庚辛○○一二三四五六七八九十と謂いて布留部由良止布瑠部、此く為さば死人も生き反らん」と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。

其の御子、宇摩志摩治命(うましまじのみこと)は神宝を天皇に奉り、○霊の御前に○めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神(すじん)天皇の御代に○霊と共に石神布留の高庭に鎮り給うた。

付記

十種瑞津の宝の当地に鎮座ましますに至る由来は其の昔永禄年間室町幕府の末期足利義昭が織田信長に奉ぜられて入京、そして永禄十一年十月十八日征夷大将軍に任ぜられ室町幕府第十五代将軍となった。

然れどもすぐにその権力はなく信長の力にたよらねば何事も出来なかった。しかし義昭は将軍となるや大和の法隆寺(ほうりゅうじ)石上神宮(いそのかみじんぐう)、山城の大徳寺(だいとくじ)、紀州の根来寺(ねごろじ)、摂州の本願寺(ほんがんじ)など畿内の主な社寺や有力な大名に呼びかけて味方につけようとした為に当然信長と衝突した。かくするうちに天正元年義昭は公然と武田、浅井、朝倉、本願寺などと手を組み信長討伐にのりだした。

しかし信長はたちまち反撃に出てそれをおさえた。それ時、天正元年八月石上神宮(いそのかみじんぐう)と織田の武将達の焼打にあひ財宝はうばわれ十種瑞津神宝は持ち去られた。その後、天正十年信長は、本能寺(ほんのうじ)に明智光秀に討れ、光秀又豊富秀吉の為、山崎合戦に破れ天正十三年秀吉天下を取るに至る。

石上神宮(いそのかみじんぐう)の神宝、十種瑞津の神宝は心ある士に守られて保護されていた。秀吉その士に十種瑞津神宝の話を聞き○○の有難さと現実の因果におどろき十種瑞津の神宝と生魂の森深く永久に鎮まりませと納め奉った。時は流れ徳川幕府も終わりの討幕運動が大詰にはいった慶應三年八月下旬、名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったとの噂をきっかけに老若男女が気違いのように踊り狂い乱舞は日に夜につづき、はじめは京都、大阪、大津など、近畿地方に行なわれ、次第に日本全国に及んだ。鳴物入りで「ええじゃないか」のはやしをつけた卑俗な唄をうたいながら踊り歩いた。

これはかつての「おかげまいり」にみられた宗教的興奮が倒幕直前の政情不安に乗じて形をかえた。「世なほし」騒動の要素も交っており気にくわぬ地主や富豪の家に踊り込み暴れ廻った。そして暴徒は社寺佛閣にまで押しかけて荒れ狂ひ、生魂の宮もおそれて暴徒のほしいままにされた。

其の時に、神宝瑞津の宝は、二度目の難を受け暴徒に持ち去られて生魂の森よりお姿が消えた。

其の後、神宝は町の古道具やの店頭にさらされていたのを喜連に住む小林某なる人により発見され買い求めてこれを家に祭れり、後小林氏当地を去るにあたり浅井氏預け、浅井氏又この地の旧家増池氏に預けられしが、増池氏敬崇の志厚く永代御灯明料共に神宝を式内楯原神社(たてはらじんじゃ)に奉納と社殿を建立し斎き祭るに至れり。

後に室戸台風にあひ社殿はたおれ長らく拝殿に祭り居たしも、今里の庄司善雄氏(石上神宮(いそのかみじんぐう)守護職の子孫)が尋ね来う神宝を石上神宮(いそのかみじんぐう)にかえしてくれる様頼まれしもこの尊き神宝をかえさづにあたらしい社殿を建立してこれを末永く斎き祭るに至れり。

河内国河上の哮峯に天降座りしより幾千年、神宝はよき地を得て鎮まる処を得るなり。

「之文歴史参照 庄司氏談話より」

式内楯原神社(たてはらじんじゃ)


面白いですね。しかし、日本人は信仰心と共に権力に対する戦う心(闘争心)も失ったのでしょうか。最近の政治状況が寂しく思えます。


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