(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年10月17日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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東大阪市池之端町 大阪稲荷山神社


東大阪市池之端町に鎮座する大阪稲荷山神社(おおさかいなりやまじんじゃ)です。阪奈道路の下り線の直下に階段があります。

30年前には奈良県に住んでいて、この道は週に何回も走っていましたが、こんなところに神社があるなんて知りませんでした。

最近、この横にペット霊園が開設されています。社長さんといろいろと話をすることができました。

汗びっしょりになりながらここまで上がってきたのですが、なんとも河内平野を見下ろす景色は良く、椅子とテーブルが置いてあったので、妻がわざわざ作ってくれたおにぎりを頂くことにしました。


『木津亀之助の碑文

あなたは慶応三年秋九月に大阪府江戸堀二番地の根津氏の家に生まれた。

働き盛りの年頃に木津家の養子となり、その家業を継いだ。今、木津氏を名乗っているのはそのためである。とはいえ、もとの根津氏の家業も取り仕切り、勤勉に経営して、多くの功績を残した。三十年余りを毎日誠実に働いたのである。だから両家は競い合うように隆盛を極めているというのである。

あなたは生まれつき聡明であった。(「不安小作」は不明)

ただ、正義感をもって生き働いてきた。だから経営する事業はいつも尊敬を受けて、信頼されていたのである。心が気高く、洞察力に優れていた。次第は激動の時期を迎えていた。早くから海外貿易を決意しており、長い切磋琢磨して始めて輸出に活路を開いた。明治三十六年にこの地に織布事業を興した。大規模な工場は天下に傑出し、また同様の工場を各地に増築し、すべて最新の西洋式機械を設置し、整備したのである。事業は実に順調に推移した。根津本店や山矢工場を見てみると、今日のような盛況を迎えているのは、この事業を機械化できたからである。

また、石切神社の北にある孔舎衛村の稲荷山山荘は、今を去る十年余り前に、奥深く静かな林を購入し、山荘の周囲の生い茂った樹木を切り開いた。石のごろごろした所に小道をつけたが、石敷きの里と見まがうばかりであった。年月がたつと、ただ一家の小さな別荘を建てたいばかりであったのが、思いに反して壮美な建物で楽しく美しい場所となった。山上には豊作を祈る稲荷大神の社を建て、守護神としたのである。

大正二年発丑の年の二月、病にかかり、石も薬効も功なく、五月十五日にその家で亡くなった。どうしても嘆かないでいられようか。ああ、あなたは商人の手本と言うべき人である。難儀ある時も尽力し、困難に打ち勝つことができた。あなたが適切に処置することがなければ、現在のように家業が発展することもなかったであろう。また、村政にもかかわり、しばしば広く世間にも知られていた、とは言え、脳裏にはここで、忌憚なく人と楽しく過ごしたことが浮かんでくる。ここがなければ公私ともにひとびとが集まって和合することもなかったであろう。

近ごろ、同士が集まって相談し、あなたの事績を記し、碑文を作ることになった。また詩を記す。


この庭園にはどこからか笛の音が聞こえ、そこには一つの碑文が建っている。

ここに気骨ある人物の遺骨を納め、皆が弔問に供物を持ってやって来た。

あなたは成功を納めたが、若くして亡くなってしまった。運命とはなんたるものであることか。

あなたがこの地を開いたおかげで、人々が集まって和やかな時間を過ごすことができた。何事も順調であった。

ああ今から長い年月が経っても、風や雲が興っては消えていくこの地が、大きな事業の基礎となった地だと言う事は人々は忘れられることがないであろう。

大正二年発丑の年、秋八月十五日 大阪の油堂川上尼が謹んで書す。

東大阪文化財を学ぶ会 会長 伊ケ崎叔彦』


この稲荷社はどうやらこの人の建てたものが脈々と続いているようです。立派なものです。


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