(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年10月03日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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大阪市中央区 鵲森神社(森之宮神社)


大阪市中央区森ノ宮中央に鎮座する鵲森神社(かささぎもりのみや)、別称、森之宮神社です。

JR大阪環状線と地下鉄中央線の森の宮駅すぐにあります。直近の交差点を渡ると大阪城のある大阪城公園です。

鵲森宮(かささぎもりのみや)由緒書

一. 御祭神と鎮座の起源

大阪が「押照や難波」と詠まれた今から千四百年前、崇峻天皇二年(589)七月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝され祈願され、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。その戦いに勝利されて、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りなさった。その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺(してんのうじ)を創建なされたのです。

御父用明天皇崩御の後追慕の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさって、かつ宮殿を造営なさり、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟となりました。

初め境内地も方八町あったと云います。そして本殿、拝殿初め楼門に至る迄華麗で、目を驚かすばかりだったようです。

それゆえ古地図、古文献等にも多数記された由緒ある古社であり、さらに人皇三十一代用明天皇(欽明帝第四皇子、橘豊日命)並びに穴穂部間人皇后を祭る日本唯一の神社です。

しかしながら時移り世が替ると、御社の衰えも大層甚しく、今は小社に鎮守していますが、この宮所は実に千四百年の星霜を経ています。このように歴史が古く、由緒正しい社は日本が広しといえども数少ないのです。

なお用明天皇御陵は南河内郡太子町にあります。磯長原陵(しながはらりょう)です。

「色かはる下葉よりこそ散にけり森之宮の秋の初かぜ  (直好)」

二. 社名の起因

社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)と云うのは、上古難波の(もり)と云っていた推古天皇の御代に、難波の吉士磐金(きしいわかね)(聖徳太子の命により新羅へ使者として渡る。鉄鋼業の祖)と云う人がいまして、新羅国から還って来て、鵲(俗に朝鮮鳥)二羽を献上しました。(「日本書紀」推古六年夏四月の条に載っています)

この森に飼はせなさったことから「鵲の森」と称え、遂に宮の名となり略して「森之宮」又は「森明神」とも云うようになりました。鵲とは日本の(からす)によく似ており、全体が黒く、腹部の白い鳥で、韓国や北中国には多く生息しています。昭和十七年五月帝国海軍水雷艇「鵲」より剥製の鵲を当社に献上してもらい現存しています。

「来てよ見よ日影はもれていつしかと緑さしそふ鵲の森  (貞丈)」

「秋風のおと身にしみてかささぎの森の梢は神さびにけり (熊彦)」

「今年より桜を森の宮なれば神よ心を花にゆるすな    (直好)」

三. 社領と氏地

当社の造営当時は、方八丁にして神領神田広大といいます。また神領は千石余あったと伝えています。その後元亀天正の時代、織田信長の石山攻めの時、武人の為に掠奪され、かつ建造物もまた兵火に被って、社殿はことごとく灰塵と化しましたが、御霊体は事なく別所に奉安することを得たと伝えられています。

現在の城東区の天王田とか、東大阪市住道近くの御供田というのもその名残りです。』

なるほど、社務所で頂いた「由緒書」の中身を読むと結構な歴史が記されています。

城東区天王田には八坂神社(やさかじんじゃ)がありました。

この辺りは大阪城の場内と言ってもおかしくない距離ですが、大阪城よりは古く上町大地の北東の端に当たる地域です。ここから難波宮にかけては登り坂になります。


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