(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年09月18日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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八尾市久宝寺 顕証寺〔久宝寺御坊〕


『顕証寺と寺内町

古くはこの地を橘島久宝寺といい、早くから親鸞上人の高弟信願房法心の建てた慈願寺(じがんじ)があった。

文明二年(1470)蓮如上人がここに布教し顕証寺(けんしょうじ)(久宝寺御坊(きゅうほうじごぼう))を建てた。この御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀をめぐらし、街路は碁盤の目のようになっていた。

このようにして本願寺門徒衆は戦乱を防ぎ門徒の団結をはかる寺内町を作った。この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権を委された。いわゆる中世末期浄土宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落である。

顕証寺(けんしょうじ)は、真宗西本願寺別院で連○の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめた。

八尾市教育委員会』

久宝寺(きゅうほうじ) 寺内町

久宝寺(きゅうほうじ)は、戦国時代に寺内町として建設された、450年以上の歴史を持つ町です。

蓮如上人は、文明二年(1470)の河内布教の際、「帰する物市の如し」といわれるほど帰依する人が多かったので、この地に西証寺を建立しました。西証寺(さいしょうじ)は後に顕証寺(けんしょうじ)と寺号を改め、天文十年(1541)頃にこの御坊を中心として久宝寺寺内町が誕生しました。

ここには多くの真宗門徒が集まって自治を行い、また商工業者も集まって経済的に繁栄していました。

久宝寺寺内町には江戸時代の絵図が残っており、昔のまちの構成を知ることができます。

寺内町は環濠と土居で囲まれ、まちへの出入りは6ヶ所の木戸口から行われており、内部は東西に七本、南北に六本の道路が碁盤目状に走っていました。

このような町割りは現在でもほぼ当時のまま残っており、貴重な歴史的遺産として注目されています。また江戸時代から現代に至るまでのさまざまな様式の町家がみられ、この中に社寺や土蔵、あるいは道標、地蔵堂、水路などが通りのアクセントとなってつくられる久宝寺の町並みは、450年以上の歴史を今に伝える生きた歴史の教科書といえます。』

むかしから、大阪府八尾市久宝寺には「久宝寺(きゅうほうじ)」があると勝手に思っていたのですが、「に顕証寺(けんしょうじ)」というお寺だったのですね。

それにしても、町並みは整ったところです。一向衆って確か本願寺(ほんがんじ)の門徒衆のことだったと記憶しているのですが、ちょっと調べてみることにします。

私は、仏教に少々疑念を抱いています。ちょっと取り除けそうにないこともあるのですが、日本の仏教にはここにでてくるような「親鸞上人」や「蓮如上人」なんて人ばかり出てきます。「空海」も真言宗では開祖だとか、でもね、「仏陀」はどこへ行ったのかと思うのです。

カトリックは、ユダヤ教から続く中に現れた「イエス・キリスト」が唯一の神の化身で「三位一体」とは「父と子と精霊」が一つのものであると説きます。子がイエス・キリストとして人間の形で現れたということです。俗にキリスト教というのは、ピューリタン革命でカトリックの様々な悪い点を批判して派生したものです。そして、イエス・キリストのあとにムハンマド(モハメッド)が出てきたのがイスラム教と説明されています。

しかし、日本の仏教は、私にすれば「仏陀」の存在を感じないのです。何故なのでしょうか。高僧の名ばかり聞こえてくるのです。