(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年09月04日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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東大阪市六万寺町 梶無神社


東大阪市六万寺町に鎮座する梶無神社(かじなしじんじゃ)は、生駒山麓でも東高野街道から少し東へ山に上がったところになります。大昔から土地であった地域です。

梶無神社(かじなしじんじゃ) ご由緒

社伝によると神武天皇は、ご東征の砌り御船を白肩津から入江深く遡られて来られ、日下坂の戦いに利あらず御船にて廻幸なされようとされたが、風強く波高くして梶折れ、御船は海上を漂揺する危機に立ち至られた。神武天皇は、祖神のご加護を求め祈願を○められた為、さしもの強風も鎮まり波も穏やかになって、附近の丘に御船をつけ上陸することが出来た。神武天皇は、祖神のご加護を深く歓ばれて、その上陸した処に祖神の○○○○と木花開邪姫尊を祭神として祠を建て、神々に感謝された。この祠が後年梶無神社(かじなしじんじゃ)になったと云われている。

古代においては、日下の入江がずっと南に入り込み、その低湿の地に近い下六万寺町三丁目三番付近から五世紀ごろの祭祀遺物である石製模造品が出土しているが、この辺りが神武天皇上陸の地とも云われている。また、後三条天皇延久四年(1072)九月五日の太政官牒によると、この祭祀遺物が出土した西側から今の近鉄線の南側に至る六町四方の「梶無里」があったことがわかる。この「梶無里」は、梶無神社の所領または神田の所在地であったとも云われ、現存する「小字梶無」は、「梶無里」三十六坪のうち「十七、十八の坪」に亘るあたりである。

梶無神社(かじなしじんじゃ)は、「船山大明神」「桜井の社」とも云われ、梶無神社(かじなしじんじゃ)のご鎮座地周辺は古代の河内國河内郡に設けられた七郷の一つである桜井郷の中心地で、大化改新まで桜井屯倉(日本書紀安閑天皇条)が置かれ、応神天皇の妃となった糸媛の兄櫻井田部連男機○の出身地である。また奈良時代には、平城京(へいじょうきょう)から鳴川峠を経て難波京に至る途中の地である桜井に桜井頓宮(天皇の行幸に際して設けられた仮宮・続日本紀天平十六年閏正月十一日条)が設けられた。

延喜式とは、醍醐天皇の延長五年(927)に完成した平安時代初期の国家の法令書で、その巻九に梶無神社(かじなしじんじゃ)が毎年二月四日の祈年祭に宮中の神○官より、御○(○(あいぎぬ)三尺、木綿二両、麻五両、四座置、八倉置各一束、楯一枚、槍鋒一竿、庸布一丈四尺、○葉薦三尺。)を賜り、更に鍬一口を加えられた神社として記載され、現在に至ろまで延喜式内社(えんぎしきないしゃ)として崇敬されている。

主な造営

ご本殿は、資料によると慶長十六年(1611)七月、享保六年(1721)八月、文化元年(1804)三月に夫々造営があった。以降昭和十年十二月、平成七年七月に造営された。ご本殿の庇取付部は隅木無しの春日造りで室町時代以前の様式を今に伝えている。昭和十年の造営以前は桧皮葺きでご本殿全体が覆屋で覆われていた。御塀と垂木等の○金物には十六葉菊紋が用いられている。

境内

ご神木の老楠(樹齢五百年・幹回り510cm)を始め境内の樹木は東大阪市の保存樹林指定(平成三年三月二十五日)となり、アオハズクの繁殖地(東大阪市の天然記念物、昭和五十一年三月八日指定)となっている。秋季大祭及び宵宮祭には青年団によって担がれた大小六台のふとん太鼓台が、日中は氏子区域を巡航し午後八時から宮入が執り行われる

ご霊験

神武天皇のご由緒により「みちびきの神」「乗り物の神」「交通安全の神」、またご本殿に夫婦神を祀ることから「安産・子安の神」「家内安全の神」とも云われ、昔からそのお守りとしてご本殿の御砂を受けられる崇敬者多々居られる。

上記の記載は真新しい銅板に書かれており、写真に撮りましたがうまく写っていませんでした。「○」は現在調査中の漢字です。アオハズクの繁殖地だそうですし、近鉄奈良線の瓢箪山駅からもそう遠くありませんので一度訪問してください。

大阪平野は低湿地や池や沼である以前に海であったと云われていますが、この神社は古くからの地面の上にある用です。大阪府全史では「古くは俗に船山明神と称す。祭神は詳らかならず。その西北に接する字梶無の地は祭神の始めて上り給ひし所にして、その御供田という。神武東征の折り日下坂での戦いで利あらず途中船の梶が折れ、舟は水上に漂揺し一の樹木ある小丘に着きしはこの地にして、暫し御舟をとめさせられて風波の鎮まるを待ち給ひし」と記されているようです。


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