(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年08月08日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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東大阪市若江南町 若江城跡、美女堂氏遺愛碑


若江鏡神社(わかえかがみじんじゃ)から北へ向いて道なりではなく日蓮宗 身延山 蓮城寺(れんじょうじ)横の細い道へ真っ直ぐにすすむと布施四条線にでます。少し南へ行くとこの場所にたどり着きます。

何やら狭い空間に所狭しと様々な石碑に石標やお堂まで建っています。

その中に「旧若江城(わかえじょう)跡」という石標が建っています。残念ながら豊臣秀吉が来たといわれている若江城(わかえじょう)は跡形もありません。果たしてどのような城があったのでしょうか。

道路の反対側に『美女堂氏遺愛碑(びんどうしいあいひ)』と『若江城(わかえじょう)跡』の説明がありました。

若江城(わかえじょう)

若江城(わかえじょう)は、南北朝時代の争乱期(十四世紀末)に、幕府の命令により河内国内の武士の統率と取り締まりのため、河内国守護に任じられた畠山基国が、北朝方の拠点として築いた城郭と考えられ、永徳二年(1382)から天正元年(1573)までの約二世紀間、河内国守護の政庁の役割を果たしてました。

畠山氏は、満家・持国に継がれ、このあと政長と義就に義兄弟の家督争いは、有名な応仁の乱へと発展し、やがて支配は細川氏から三好氏へ移り、永禄十一年(1568)には畿内を平定した織田信長が三好義継を若江城主に、畠山高政を高屋城主としました。

城は石山本願寺(いしやまほんがんじ)攻撃の拠点として使われましたが、和議が成立し、城の役割を終えて廃城となり、歴史から姿を消すことになりました。

若江城(わかえじょう)の跡は、昭和47年以来の発掘調査で、次第に明らかになってきており、若江公民館分館を中心として、周辺から二重の堀や土塁・各種建物・溝・井戸などの跡や、瓦類・土器類・武器類など、多数の城跡の存在を裏付ける資料が出土しています。

平成8年1月 東大阪市』

美女堂氏遺愛碑(びんどうしいあいひ)

この碑は、平成4年4月に、東大阪市若江北町の杉山一彦邸内あったものを、同氏の申し出によって、この地に移されたものです。

碑の高さは105cm、幅65cm、厚さ31cmで、用材は和泉砂岩です。文面を見ると、天保二年(1831)4月に美女堂勝喜氏が、掛川の十東遠氏に文を作らせ、美女堂氏(びんどうし)の系譜と懐古の情を禁じ得ず、建立したことが分かります。

碑の表面の文章を要約すると、若江北町には古くから美女堂氏(びんどうし)という旧家が四戸あり、この頃(天保二年)には、既に二戸は転居し、吉左衛門の一家ののみが栄えていました。これに対し、勝喜の家の跡には老松だけが茂るだけで、懐古の情が湧き、この碑を建てた、と記されています。

大正時代に出版された「中河内郡誌」によると、摂津源氏として活躍した源満仲が、四男美女丸のために、若江北町にある美女山薬師寺(やくしじ)(巨摩堂(こまどう)ともいう)を建立し、子孫は美女堂と名乗った、と記されています。また、子孫は改姓して藤原氏となって、大阪に移住したとも書かれています。

このように美女堂氏(びんどうし)の由来が書かれた名族由来の顕彰碑は、貴重な資料であり、若江に関する資料として大切にしたいものです。

平成5年12月 東大阪市』

この周辺の歴史を知ることができる貴重な場所です。


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【城跡・城址】