(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年08月06日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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東大阪市若江南町 山口重信墓


東大阪市の真ん中を東から西に流れる第二寝屋川の若江南町に「若江南(わかえみなみ)墓地」があります。木村(きむら)重成(しげなり)がある幸公園は対岸になります。長途、門から出て橋を渡ったところが幸公園になっています。

地形図ではこの墓地だろうなと思っていたのですが残念ながら門を入って直ぐ左に一際目立つこの墓を見逃してしまい、奥まで行って探し回った挙句に、後で探すことにして門を出ようとして車待ちをしている時に気がつきました。

何やら一際高くそびえ立ち、鉄の枠組みで支えられているこの墓石、なんと亀の上に乗っているように見えました。前に回ってみるとなるほど墓石が亀の上に乗っています。何事なのでしょうか。私には理解不能ですが何らかの意味があるのでしょうか。ちゃんと花があるので誰かが御詣りをしているようです。

碑文が掲示されていました。

『山口伊豆守重信(しげのぶ)の墓

山口重信(しげのぶ)は元和元年(1615)「大阪夏の陣」の戦いで徳川方の武将として豊臣方の武将木村(きむら)重成(しげなり)とこの地で戦い共に戦死しました。

この墓は重信の弟、弘隆(ひろたか)により正保四年(1647)重信の三十三回忌に建てられました。

3m角の礎石の上に亀の背(亀趺きふ:)が乗り、その上に高さ3m、幅90cm、厚さ45cmの墓塔が建てられ銘文には若江堤の戦いの様子が幕府の大学頭、林道春(羅山)の文章を石山丈山の篆刻により刻まれており、(てんがく)上には幡龍二尾を(のみ)した非常に貴重な墓塔です。

周囲の玉垣は重恒(重信の弟)が、灯篭は家臣の山口忠兵衛重信(しげのぶ)が承応三年(1654)に、花立は弘隆の嫡男重貞が元禄五年(1692)にそれぞれ寄進したものです。本体も碑文も当時のままであります。

平成16年4月 若江南墓地管理委員会』と記されています。

第二寝屋川の上流を見た写真です。信貴生駒の山が正面に見えています。その下が下流方向、そして木村(きむら)重成(しげなり)の墓のある幸公園です。

『山口伊豆守重信(しげのぶ)と若江の戦い

山口家は周防の守護大内氏の流れをくみ、重信(しげのぶ)の父、但馬守重政が徳川家康より常陸国牛久に領地を与えられ大名となりますが、慶長十八年(1613)嫡子重信の婚姻をめぐり幕法に反したとして領地を没収されます。このため、武功を上げて旧に復するべく、元和元年(1615)大坂夏の陣に井伊掃部守直孝率いる徳川軍(兵3200人)に父子で参戦しました。5月6日早朝、徳川軍は八尾楽音字発し、玉串川から若江堤へと進み、若江に布陣していた木村(きむら)長門守重成(しげなり)率いる豊臣軍(兵470人)と壮絶な戦闘を繰りひろげました。これが若江の戦いです。

この戦いで、先鋒を競い合った重信は木村方の飯島三郎右衛門など五騎を討つ功をあげますが、武運拙く26歳の若さで戦死し、一方豊臣軍は木村(きむら)重成(しげなり)が井伊方の家臣安藤長三郎に討ち取られ撤退しました。

寛永五年(1628)、重信(しげのぶ)の武功により父重成に牛久など一万五千石が復され、にち次男但馬守弘隆が本領一万石、三男備前守重恒が五千石を継ぎました。

墓は、兄重信(しげのぶ)の霊を弔うために弟弘隆が正保四年(1647)に墓碑を建立し、その後さらに弟重恒が承応三年(1654)に石柵を建立、家臣の山口忠兵衛重成(しげなり)が同年に石燈篭を寄進、弘隆の嫡男重貞が元禄五年(1692)に石花瓶を寄進し現在の姿になりました。墓碑前の石柱は若江村庄屋西村九郎兵衛の建立です。

平成17年2月 東大阪市』

こんな大きな川はありませんでしたので、若江の戦いでこの辺は地に染まったのでしょう。なかなか勉強になります。このような話を子供たちにしてやれば興味も沸くだろうなと思います。