(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2008年05月07日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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河内七墓『岩田墓地(いわた)』


大阪府東大阪市の河内七墓といわれる行基(ぎょうき)開墓の墓の一つの岩田(いわた)墓地です。

行基(ぎょうき)大菩薩『法相宗 和泉国大島郡家原村の人、姓は高志氏幼名は史首、15歳出家して法興寺に入り、薬師寺に移って◆伽唯識を学び、又徳光道昭に義淵等を受法した後、母と共に生駒山に隠棲し、次いで諸国に遊化して寺を創建し或いは弟子を率いて諸国を廻り、架橋、開田、道路の修繕等、我国社会事業史に偉業を残した聖武帝に重んぜられ天正15年東大寺瘻舎紗那佛金銅像(大佛)建立の御願を発し、給うや、家徒を率いて造営を助け、大僧正に補せられた。これ本邦における大僧正の初である。

行基(ぎょうき)菩薩諸国遊化の際、奈良時代の河内一国天災飢饉に次ぐ疫病の為、死亡者が続出したので、それらの村人を手厚く、近くの阿弥陀寺で供養され、河内七墓(市内岩田、長瀬、額田、八尾市内、神立、垣内、恩智、晒)を開かれた。

その後、寺が消失、阿弥陀如来(あみだにょらい)像が消失をまぬがれ、墓地入り口西側に安置されている。

天平勝宝元年、菩薩戒を授け、大菩薩の号を賜い、同年12月、菅原寺東南院を寂した。年82歳、ここに大菩薩の偉徳を偲び、当墓地諸霊の鎮魂を念じ座像塔に五輪塔を建立す。
          合掌
   平成元年2月2日
   岩田墓地管理委員会』

この墓地の東側は、細長く新田開発された「菱屋東」という地名で、前に菅原神社に説明のあった場所です。

旧大和川と菱江川(ひしえ)という説明があります。『現在は埋め立てられて遊歩道となっている菱江川(ひしえ)は江戸時代の中頃まで河内平野を北進していた旧大和川の分流で、当時は川幅約150mもある大きな川でした。旧大和川は、現在の八尾市二俣(ふたまた)で西は長瀬川(久宝寺川)、東は玉串川に分かれ、さらに玉串川は本市花園付近で西は菱江川(ひしえ)、東は吉田川(よしだ)?深野池(ふかの)?新開地へと流れ、これらの川は徳庵(とくあん)?放出(はなてん)付近で合流していました。

旧大和川は、古代以来洪水の歴史を繰り返してきた川でしたが、宝永元年(1704)大和川の付替工事によって、各川床と同様、旧菱江川の川床も用水路を残して菱屋東新田(約14ha)として生まれ変わりました。

この新田は、菱屋西新田菱屋中新田と共に新家村の菱屋岩之助が権利を得て開発したもので、宝永5年(1708)に完成し、以後綿など商品作物の生産を中心に行われました。周辺町村合併によって、旧布施市当時、菱屋東地域は細長く河内市域へ張り出した形となっていたため「像の鼻」とも言われていました。
   平成4年3月  東大阪市』

この墓地は、菱江川の西岸に位置した場所にあったお寺に作られた墓地でしたが、第2時世界大戦後には、朝鮮人を葬った際にコンクリートで固めたという墓がありました。現在では撤去されていますが、「人としてどうなのでしょうか」という感じを持ちました。

人は時には、残酷で冷酷なことを平然とやってのけるのですね。行基(ぎょうき)縁の寺にあのようなコンクリートで表面を固めた墓があったことを悲しく思います。

河内地方では、この岩田墓地を中心に夏場に墓市と言う祭りが開催されています。貴方も時間があれば夏場に訪問されることもよいのではないでしょうか。露天商がたくさんの店を出します。


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