(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2008年05月06日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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東大阪市長瀬町 河内七墓 長瀬墓地


大阪府東大阪市長瀬町の長瀬(ながせ)墓地は、河内七墓といわれる行基(ぎょうき)開墓の墓の一つです。

長瀬(ながせ)墓地の由来記によると『昔から河内の人々には、お盆に七墓詣りと称して、長瀬(ながせ)墓地、岩田(いわた)墓地額田(ぬかた)墓地(さらし)墓地神立(こうだち)墓地垣内(かいち)墓地恩智(おんぢ)墓地を巡礼した。

河内七墓は、今から凡そ1200年前に奈良朝の名僧行基(ぎょうき)菩薩の開墓による、慶長元年37歳の行基(ぎょうき)は勅願寺であった、薬師寺を捨て、民衆の中で布教を始めた。

当時、近畿一帯は数年に亙り旱天や長雨が続き、民衆は飢餓と疫病に次々と倒れ、屍は野山に遺棄され生活は貧困を極めた。或者は家を捨て盗賊となり、親に棄てられた子は路頭に溢れた。これを憂いた行基(ぎょうき)は河内の人々に向って、

「信仰と善行を積んで幸せになろう」

と呼びかけ、これを惨にも遺棄された屍を集め荼毘に付し厚く供養した。

長瀬(ながせ)の墓もその一つである。

1200年前の行基(ぎょうき)菩薩の慈悲心と共教に協力した人々の善意に満ちた美しい行為は忘れてはならない。

長瀬霊苑奉賛会

墓地内の旧跡

行基(ぎょうき)菩薩墓
 行基(ぎょうき)井戸
 有馬御廟
 阿弥陀院』

融通念仏宗 中興の祖
  法明上人有馬御廟

『法明上人は、弘安2年(1279)10月10日摂州深江に誕生、幼名を信貴千代と称した。父は後宇多天皇の朝に仕えた清原右京亮守道公、母は河内平岡(枚岡)の神司の息女である。相次いで肉親の死に遇い世の無情を感じて出塵の志を立て25歳にして高野山に登り千手院谷真福院(明治中期、安養院に合併)の俊賢法師の許で出家し、法明坊良尊を号した。

初め密教を修学したが、のち念佛に帰依し43歳の時、石清水八幡大士の神勅により、融通念仏宗第七世の法灯を継承し集団の基礎を固めた。故に中興上人と尊崇する。貞和5年(1349)6月13日(新暦7月7日)71歳で示寂当墓地で荼毘に付し、卵塔を建立して遺骨を埋葬したものである。

ここを有馬御廟というのは、律令時代より明治29年に至るまで渋川郡有馬村の呼称があったからである。

融通念仏宗 総本山 大念佛寺(大念仏寺)

今般の御廟及び参道の補修整備には平成10年中祖法明上人第650会御遠忌奉修局記念事業の一貫として東大阪市並びに長瀬(ながせ)墓地奉賛会の強力によって成されたものである。』

融通念仏宗というのは、河内地方独特の宗派になっていますが、平野の「融通念仏宗 総本山 大念佛寺(大念仏寺)」は立派なお寺です。

由緒ある墓地だったのですね。私にとってこの辺は遊びにいく通過地点でしたし、墓地にも縁がなかったので来たことはなかったと思うのですが、興味を持てば、おもしろいものです。


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