(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【Release date:2008年05月02日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


xHOTZONE Go to xDataBase viewhalloo Tips p2pzigzag p2pzigzag hrkz p2pzigzag Go to Home evtcal reporter2

河内七墓まいり


河内七墓は、『長瀬(ながせ)墓地岩田(いわた)墓地額田(ぬかた)墓地(以上 大阪府東大阪市)、神立(こうだち)墓地垣内(かいち)墓地恩智(おんぢ)墓地(さらし)墓地(以上 大阪府八尾市)の七ヶ所の墓を言い、河内地方では古くからお年寄り達は、盆の月中に、この七墓参りをして、先祖の供養と自分達の極楽往生を願いました。

今から凡そ1200年前に、奈良朝の名僧行基(ぎょうき)菩薩の開基による慶雲元年37歳の行基(ぎょうき)は勅願寺であった薬師寺を捨て、民衆の中で布教を始めた。当時近畿一帯は数年に亙り旱天や長雨が続き、民衆は飢餓と病疫に次々と倒れ、屍は野山に遺棄され生活は貧困を極めた。或者は家を捨て盗賊となり、親に棄てられた子は、路頭にあふれた。これを憂いた行基(ぎょうき)は河内の人々に向って

「信仰と善行を積んで幸せになろう」

と呼びかけ、これを惨にも遺棄された屍を集め荼毘に付し厚く供養した』

1200年前の行基(ぎょうき)菩薩の慈悲心と共教に協力した人々の善意に満ちた美しい行為は忘れてはならない。』と記されています。

なんとなく行基(ぎょうき)が奈良時代に大きな活躍をしたことは理解できるのですが、1200年間もその墓地が引き継がれていることに驚きを隠せません。

長瀬(ながせ)墓地
岩田(いわた)墓地
額田(ぬかた)墓地
神立(こうだち)墓地
垣内(かいち)墓地
恩智(おんぢ)墓地
(さらし)墓地

使用している数字等は、2008年05月02日の説明書き等を参考にしています。

奈良時代のこの辺はいったいどのような場所であったのでしょうか。大和川は1704年に柏原市から現在の堺方面の河口に付け替えられています。現在の『東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。』とWikipediaでは説明されていますが、長瀬川の取水口は現在の柏原市役所から西へ少し行ったところにあります。

先日訪問した、小坂神社彌榮(弥栄)神社は、大和川の川岸にあったということですが、御厨 天神社新家 菅原神社彌刀神社(弥刀神社)波牟許曽神社長瀬神社などがあるということは、この辺には村があったということでしょう。河内平野に人が住みだしたのはいつ頃のことなのでしょうか。少なくとも大坂夏の陣の頃は、家もまばらであったようですし、昭和20年頃の米軍の航空写真でも家は点在していただけでした。

いずれにしろ、行基(ぎょうき)は、天平17年(745)に朝廷より日本最初の大僧正の位を贈られたような高僧ですし、開湯伝説がある温泉もありますので、活発な活動とその行動力には驚かされます。近鉄奈良駅の前に行基(ぎょうき)の銅像が立っています。いずれにしろ大阪から奈良県や兵庫県までの間を活発に行動していたらしく様々な遺跡や伝承が残っています。

少し興味がわきますね。


関連情報レポートリンク