(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2022年11月17日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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京田辺市草内穴口 培良校跡


京都府京田辺市草内穴口にある「培良校跡(ばいりょうこうあと)」です。

買い物をしようとスーパーマーケットに立ち寄り、タバコを吸っていたら目の前に説明板が立っているのに気付きました。

此処へは相当以前に数回来たことがあるのですが久しぶりでした。

板書き以外の遺物も全くありませんし、痕跡も記憶に残っている人も殆ど生存していないと思うのですが、説明書き等が存在することは嬉しいですね。


培良校跡(ばいりょうこうあと)

京田辺市草内穴口一番地

明治十一年(1878)、それまでの田辺村などとの済美館(せいびかん)(現在の田辺小学校)から分離し新たに草内村、東村の二村が連合して、この穴口一番地の宝泉寺(ほうせんじ)所有の田地約千平方メートルを買収し同年二月から建築にかかり、校舎として講堂・職員室兼用を一棟、教室一棟を建て、同年十一月一日に完成し培良校(ばいりょうこう)と称した。

同時に明治八年七月から草内村の低学年児童が学んだ宝泉寺(ほうせんじ)弁天社(べんてんしゃ)の西側にあった分教場も廃し、培良校(ばいりょうこう)に合流した。

培良校(ばいりょうこう)の名は、当時の京都府学務課員中出利観が命名した。

教員は二名で児童総数は九十六名、一年間の学校予算は二百六十四円であった。

校名は、明治十九年(1886)に草内・東組合尋常小学校と改名されるまで続き、明治二十二年の町村合併で飯岡・草内・東の三か村で草内村となり草内尋常小学校と改称された。

そののち、明治三十四年(1901)に現在の草内南垣内五十三番地に移転した。

なお昭和五十七年(1982)に田辺小学校から分離した中学校は培良中学校と命名され、培良の名は復活した。

京田辺市教育委員会

京田辺市文化財保護委員会』

※ 境内掲示より


この場所に説明書きがあるという事は想定外でした。