(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2022年03月23日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷 高野山真言宗 雲龍山 高岳寺 遍照院


京都府綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷にある「高野山真言宗 雲龍山 高岳寺(こうがくじ) 遍照院(へんしょういん)公式HP〕」です。

孫のリクエストで宇治へ行った帰りに少しばかり時間が早かったので、宇治田原の東端部周辺で正寿院(しょうじゅいん)とこのお寺が存在していることは知っていたのですが訪問する機会をなかなか作れませんでした。

参道入口に「遍照院(へんしょういん)」とあり、「徳川家康が伊賀越えの時休んだ遍照院(へんしょういん)」の説明板があるのに気付かず登っていくと六地蔵堂があったので車から降りると住職が出てこられてお茶でも飲んで行ってと言われたので夫婦でお邪魔しました。

眼にはいる景色は比類無きと言えるほど素晴らしいもので徳川家康も此処で一服されたということで、バスを仕立てて参拝に来られたということです。


『高野山真言宗

  雲龍山

遍照院(へんしょういん)

寺伝によると、党員は元亀元年(1570)惠胤和上により創建された寺で、高野山真言宗に属し、不動明王を御本尊として、雲龍山高岳寺(こうがくじ) 遍照院(へんしょういん)と号します。

天正十年(1582)六月「本能寺の変」で明智光秀の武者狩りを避けるため徳川家康が堺より三河に帰還した<神君伊賀越え>の際、当院に立ち寄り、多羅尾一族等の加勢を得、無事岡崎に到着したと言われています。

その後、慶長十七年(1612)火災に罹り悉く灰燼となったため、資料は残っていませんが、境内の老紅梅(樹齢約450年)や高野槙(樹齢約500年)の佇まいから往時をしのぶことができます。』

※ 境内掲示より



徳川家康が伊賀越えの時休んだ遍照院(へんしょういん)

天正十年(1582)六月二日未明、京都本能寺に止宿中の織田信長が、家臣明智光秀に襲われ自刃した。(本能寺の変)

この時家康は信長のすすめで堺見物をしていたがそれも終わり引き返そうとしていた矢先、本能寺の変の急報をうけた。

驚いた家康は、とにかく本国三河へ帰る事にし、危険は多いが伊賀越えの道を選んだ。

守口、枚方と不眠の行動で尊延寺を経て草内で木津川を渡り郷之口の山口城へ入った。

ここで昼食をとり、案内人を得て物見の者と連絡をとりながら進み、街道沿いの遍照院(へんしょういん)へ着いた。

新しい案内人も出来、朝宮を通る頃には日もとっぷり暮れていたが無事多羅尾に着いた。

ここで夕食をとり一睡の上伊勢の白子浜をめざして出発した。

このあたりから守りの人もふえ白子浜に安着した。

ここから船で三河へ帰った。

六月四日であった。

家康が伊賀越えの時立寄ったと言う真言宗遍照院(へんしょういん)は元亀元年(1570)の建立である。

境内に紅梅の古木があり、花の咲く頃には訪れる人も多く、又境内上方の墓地の傍らに槙の古大木と鎌倉時代の作とも言われている無縫塔(町指定文化財)があり見学者も多い。

平成六年三月

宇治田原町商工会』

※ 境内掲示より


紅梅の季節に再訪問できれば嬉しいのですが、明るい時間帯に通れれば良いなと思います。

バイパスが完成すれば走りやすくなるので通行量も更に増えることになるでしょう。