(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2021年08月20日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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綴喜郡宇治田原町立川橋ノ本 大道寺


京都府綴喜郡宇治田原町立川橋ノ本にある「信西入道ゆかりの寺 大道寺(だいどうじ)」です。

直ぐに鎮座する大道神社(おおみちじんじゃ)に参拝に来たのですが、鳥居前に駐車余地が無さそうなので、遊具のあるお堂前に車を止めたのですが、お堂には説明書きが掲示されていました。

鳥居前までの道中に「信西塚」の道標があります。

私自身は文学や歴史に興味がなく育ったので評価するだけの知識や見識は全くありません。

今になって面白いなと思うのですが、残念な気持ちが高まるだけです。


大道寺(だいどうじ)

奈良時代に山岳修験の道場として開かれた金胎寺(こんたいじ)の北側登山口として、早くから開かれた地に天平勝宝八年(756)大納言三品湯原王(施基皇子の御子)の発願により、鷲峰山中興の越知泰澄大師が開基。

大伽藍も配置されていたが、その後衰退していたのを嘉承元年(1106)十一月、藤原忠実の帰依により再興し、それより大御堂と称したという。

その後にその子頼長に伝承されたが保元の乱後、没宮領として田原庄など諸国の頼長領と共に後院領に入れられた。

その後、平治の乱で殺された信西の所領となっていた。

大道寺(だいどうじ)の南端にこの信西を供養した宝篋印塔が立つ。

信西は俗名を藤原通憲と称し、「本朝世紀」「法曹額林」などが著した学者であったが、平清盛と結んで権勢を誇った。

清盛の熊野参詣中、対立者の源義朝は兵を挙げ、信西は信楽に逃れようとして宇治田原まで来たが、この地で自害したといわれている。

いわゆる平治の乱である。

「百錬抄」平治元年(1159)十二月十七日条に「少納言入道信西首、●尉於川原請取、渡大路懸西獄門前樹、件信西於志加良木自害、前出雲守光保所尋出也」とある。

「平治物語」古活字本には都を追われた折に「宇治路にかかり、田原が奥、大道寺といういふ所領にぞゆきにける」と記されている。

一説には、自害した屍は胴のみ近くの寺に納めて胴塚として祀られ、首は都でさらされていたのを大道寺の領民がもらいうけて、この地に塚を築いたといわれ、近くに信西首洗いの池と称する小池もある。

大道寺(だいどうじ)はその後も修験系の寺院として栄えたが、以後四百年もの間、興亡をくり返し、遂に戦国末期に、織田信長による寺領没収に会って滅亡に近い寺院になったと伝えられる。

とくに昭和二十八年の山城水害には裏山より土砂が崩れ落ち、寺は漬滅した。

五体の仏像のみかろうじて難を逃れ、以前書庫とされていた御堂に安置されていたがその建物も近年老朽化はげしく、平成十六年十月に現在の建物を新築し、本尊不動明王をはじめとする佛像を安置する。』

※ 境内掲示より


宝篋印塔があるという地には「信西入道塚」という説目書きが掲示されていました。

歴史に出てくる地であるという事を知ったのですが、義務教育で習った記憶はありませんし、「保元の乱・平治の乱」というのは記憶にありますね。

私自身の責任もあるのでしょうが、少しばかり寂しい気持ちになります。