
京都府木津川市相楽清水に鎮座する「相楽神社」です。
この神社通りかかる度に気になっていました。
国道163号線に沿って塀が延びていてなんとなくかなりの広さの境内を持っている立派な神社であるという雰囲気を醸し出しています。
やっとこさ参拝しようとしたのですが、道路を挟んだ小学校の運動会で、弁当時でしたので、弁当を食べている人でいっぱいでした。

『式内社 相楽神社
相楽神社は、北ノ庄区、大里区、曽根山区(旧相楽村)の産土神として古くから祀られてきた社です。
近世までは単に八幡宮と呼ばれていましたが、明治に至って、平安時代の法典「延喜式」に記された「相楽神社」に定められ現在の名となりました。
相楽神社本殿 三間社流造 檜皮葺 室町時代初期
身舎正面の蟇股の藤唐草・透彫の欄間・妻飾の組物など見るべきものが多くあり、重要文化財に指定されています。
末社若宮神社本殿 一間社春日造 檜皮葺 室町時代後期
各所に古様なつくりがのこされており、府等を苦有形文化財になっています。
相楽の御田と正月行事
相楽神社に伝わる年頭の宮座の行事で、月々の降水量を占う「豆焼」(一月十四日)、早稲・中稲・晩稲の作柄を占う粥占と稲作の過程を模して豊作を祈る御田(十五日)、竹串に多くの餅を差して花に見立てたものを奉納する餅花(二月一日)、年間降水量を占う水試し(旧暦一月十五日)などあります。
これらの正月行事には中世的な宮座祭祀のあり方がよく残されており、府指定無形民俗文化財に指定されています。
多くの貴重な文化財がある当社は、周囲の環境を変えることなく将来に伝えていくため、境内一帯が京都府文化財環境保護地区なっています。
平成二年三月
相楽神社
木津市教育委員会』
※ 境内掲示より

『御祭神 並 由緒
御祭神
神足仲彦命
誉田別命
氣長足姫命
以上
八幡神
由緒
當社相楽郡の地は昔天平の時代、薬師寺、唐招提寺、西大寺等の多数を 堂燈伽藍建立の用材運送の歌姫街道口の基地として發展し、続日本記にも天平十二年右大臣橘宿祢の相楽別●(別荘)ありし、●も見(●●●の長歌に「朝霧のほのかになりぬ山城の相楽山の山の際と云う」の句あり)
當時より景勝の地であったと考えられこの地に奈良時代大いに八幡崇敬の高かった八幡神を宇佐宮より勧請してここに相楽神社を創建したものと考えられます。
平安時代に入り醍醐天皇の時、●●●せられたる延喜式神名帳によれば山城國相楽郡六社のうちの一社として本社の事が見えおります。
當社の社殿が室町時代のものでその規模その壮麗さからみて古くより尊崇の高かった事がうかがはれ、尚近年本社修理の際、基礎工事中地下の四尺の所より露見せる藤原時代より鎌倉時代に至る古瓦祭祀用土器破片等によりても、この事がうかがはれるのであります。
尚當社の境内は明治中期以前は小学校の敷地も含み歌姫街道に面して、その規模も極めて壮麗なもので郷中の尊崇もきわめて高く今日氏子●●より選出しせられたる宮杜によりて絶えず格勤に奉祀されているので在ります。』
※ 境内掲示より

『重要文化財
相楽神社本殿
當社本殿は三間社流造屋根桧皮葺丹塗社殿で建築様式は室町時代前期と考へられます。
此種流造の社殿は日本に多くありますが當社の流造は、その白眉的建築で典雅優麗さ他に比類を見ません。
全体の姿は勿論ながら特に太瓶束を配せる妻飾前面の頭貫上の蟇股その下の透彫欄間化粧種下の手挟彫刻等は室町時代の典型的なものでまことに貴重な重要文化財であります。』
※ 境内掲示より

氏子の皆さんは祭りの準備か後片付けで大忙しで人が多すぎてゆっくりと写真を撮ることが出来ませんでした。
境内での飲酒や喫煙や飲食を禁じている神社が少なくないと思うのですが、木陰があるのでどうしても人が寄って来るのでしょう。
神様としては大勢の人が寄って来ることは大歓迎なのでしょう。
汚した時の後始末はしっかりとして欲しいと思います。
私としては汚していなくても使ったら掃除をするのは当然であると思います。