(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2015年05月15日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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相楽郡南山城村南大河原湯矢畷 十輪寺跡〔柳生友矩の墓〕


京都府相楽郡南山城村南大河原湯矢畷にある「十輪寺(じゅうりんじ)跡〔柳生(やぎゅう)友矩(とものり)の墓〕」です。

並んで鎮座している恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)真輪院(しんわいん)があります。

大河原駅に向かう経路で木津川を渡る車で渡れる沈下橋もなかなかのものです。


十輪寺(じゅうりんじ)柳生(やぎゅう)友矩(とものり)の墓〕

十輪寺(じゅうりんじ)は、柳生宗冬(柳生家三代藩主)が父宗矩(むねのり)の死後4千石を領した時、その領地に含まれていた南大河原村に兄友矩(とものり)の菩提を弔うために建立したという。

柳生(やぎゅう)友矩(とものり)宗矩(むねのり)の次男として生まれる。

母は京都の烏丸家の出であり、慶長八年の生まれ、幼名を左門と称し、文武両道に優れ容姿端麗で十五歳で将軍家に仕え、寛永十一年(1634)六月、二十二歳で徒士頭、同八月刑部少輔友矩(とものり)となった。

その年十一月二千石を受け、高尾・大河原を治めた。

家光の側近の一人として破格の出世をするが、あまりに家光に近すぎたため父の怒りにふれ柳生の里に謹慎、病床につく。

その後寛永十六年六月に二十七歳の若さで没した。

現在真輪院(しんわいん)の東側に石碑も残っている。

南山城村教育委員会』



十輪寺(じゅうりんじ)跡の十三重塔

花崗岩製十三重塔で側面四方は素面である。

塔身は高さ28センチメートル、幅は29.8センチメートル、下端は29センチメートルで月輪内に種字でウーン(阿 )、タラーク(宝生)、アク(不空成就)の金剛界四仏種子を配している。

この塔は軒反の萎縮等から考えて室町時代中期の造立と考えられる。

南山城村教育委員会』


私には良く解らないのですが、十輪寺(じゅうりんじ)跡と真輪院(しんわいん)は重なり合っているようです。