(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2015年01月30日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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相楽郡南山城村南大河原湯矢畷 恋志谷神社


京都府相楽郡南山城村南大河原湯矢畷に鎮座する「恋志谷神社(こいしだにじんじゃ)天満宮社(てんまんぐうしゃ)〕」です。

号名の石碑がもう一つあるのですが「天満宮社(てんまんぐうしゃ)」と彫られています。

伊賀へ越して直ぐに、この先へ2トントラックで進んで、ハイキングコースを抜けるという離れ業を演じた記憶があります。

冷や冷やものでした。

並んで真輪院(しんわいん)十輪寺(じゅうりんじ)があります。

境界がはっきりしないので、境内は重なり合っているものと推測されます。


恋志谷神社口碑傳説

現代語訳

当社に祀られている恋志谷姫神は、後醍醐天皇の側女であったといわれています。

後醍醐天皇は元弘元年(1331)に笠置山で北条高時を打ち破りましたが、天皇の軍勢は旗色も悪く敗れてしまい、翌元弘二年(1332)三月に隠岐へ配流されました。

一方その時、姫は病気を治すため伊勢の海辺にいました。

そして病気が治った後に後醍醐天皇が居た笠置へ向かう途中で、ここ南大河原の古森に着つきました。

姫は後醍醐天皇が既に笠置山を去った後であることを聞き、あまりの悲しみのため持病が再発し、自ら命を絶ったのでした。

姫が残した辞世の句は後醍醐天皇を愛慕していること、また自分の病気を歎きながら後の世の人の病気や苦難をわが身を受けますとあったと言い伝えられています。

そのためその言葉を人々に伝え、これを永遠に伝えます。

南山城村教育委員会』



天満宮(てんまんぐう) 石灯籠

社殿に向かって左側に四角形一基が立っている。

天文十四年(1545)の造立。

花崗岩製総高 183.4 センチメートル、基礎半分は土中に埋まるが、側面二区に分ち、格狭間上端反花を彫出す。

角竿に三行の銘文を刻んでいる。

右側 「天文十四年 巳」

中心に「梵(キャ)奉寄進六済中人数各々敬白」

左側に「三月十五日」

屋根の反り軒作りも穏やかで室町様式を伝え、宝珠も当初のものを使用している。

六斎講中の人々の寄進で本来は十一面観音をまつる堂前が石仏の前に立っていたもので、我が村最古の石灯籠である。

南山城村教育委員会』


他に「天満宮(てんまんぐう)」と彫られた石碑もあります。

牛さんは見当たりませんが、菅原道真公も祀られているという事でしょうか。