(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2008年04月08日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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京都市中京区二条城町 国宝 二条城


京の桜見物の最後に、京都御苑(きょうとぎょえん)からぶらぶらと歩いて国宝の二条城(にじょうじょう)公式HP〕にたどり着きました。

私も妻も来たような、来たことのないような記憶しかありません。多分、間違いなく小学校か中学校の遠足で来ているのですが、やはり自発的な意志で来ていないと、余程の体験がないと記憶に残らないのでしょう。いや残さないと言った方が良いのかもしれません。

大阪の東洋陶磁美術館の国宝の青磁にも感激しましたが、この建物は何とも言えないほど立派な建物と屏風絵や破風や飾り金具が建物の壮麗さと巨大さそれにここから大阪城攻めに出て行ったという歴史も感じさせられます。何よりもそれぞれの部屋の屏風絵は、教科書で見たことのある素晴らしいものです。

建物はすべて徳川時代の象徴のようで、すべてに荘厳で質素で素晴らしい武士の建物と言った風情があります。金閣寺(きんかくじ)(鹿苑寺(ろくおんじ))のようなきらびやかさはないのですが、武士の息吹を感じさせられます。しかし、城内の広いこと、規模としては最大の時よりも小さくなっていると思いますが、広いの一言です。

また建物すべてがしっかりと堅牢な造りですし、何となく身の引き締まりを感じる場所です。私の母の実家にある彦根城(ひこねじょう)とは少し違った印象になります。天守閣は残念ながら、消失しているのですが、石積は残っています。険しい階段を上がると視界が広がりちょっとした展望台のようです。

城の裏門からでたところに桜の樹が数本たっています。ちょっと時期的にはぎりぎりのところですが、枝垂れ桜の花を楽しむことができました。そもそもは、原谷苑のしだれ桜を見にきたのですが、平野神社(ひらのじんじゃ)とここでやっと枝垂れ桜を楽しむことができました。見物客もここで足を止める人が多いようです。

こちらは見学順路からかなり離れた奥の方に素晴らしい枝垂れ桜が咲いていました。この位の桜の花が見られるのはうれしい限りです。但し、二条城(にじょうじょう)は桜の花がなくてもしっかりと楽しむことができます。

やはり国宝に指定されている物や建物は本当に感動を与えてくれます。ワシントンD.C.のスミソニアン博物館にあるアメリカの国宝も素晴らしいのですが、当然、イギリスの大英博物館も同じですが、国宝にしていされるようなものは格が違うのですね。

平野神社から乗ったタクシーの運転手さんが、京都御苑(きょうとぎょえん)(京都御所(きょうとごしょ))は桜だらけだと言っていたのであまりにも桜の少なさに花見という点では少々がっかりしていたのですが、どこかのホームページで紹介されていた「京都御苑(きょうとぎょえん)内鎮座 宗像神社」にも満足はできませんでした。今日の花見は、平野神社(ひらのじんじゃ)と二条城で満足することができました。

それにしても、京都御苑(きょうとぎょえん)(京都御所(きょうとごしょ))も素晴らしいところで散策するには最高です。参考までに二条城(にじょうじょう)の年表が在りましたので掲載しておきます。

二条城年表
年号
(西暦)
歴史 摘要
慶長6年
(1601)
12月徳川家康が西日本の諸大名に二条城(二条新邸)の築城を課す 1600年:関ヶ原の合戦
慶長8年
(1603)
二条城完成(現在の二の丸部分) 1603年:家康将軍となる
慶長8年
(1603)
3月家康初めて入城、このあと11年4月まで城内整備を続行 1605年:秀忠将軍となる
慶長16年
(1611)
3月豊臣秀頼は加藤清正をともない家康と会見  
慶長19年
(1614)
12月城内で大阪城の陣の軍議を開き、当城より出陣  
元和元年
(1615)
5月城内で大坂夏の陣の軍議を開き、当城より出陣 1615年:豊臣家亡ぶ
元和元年
(1615)
7月禁中公家諸法度を城中にて発布 1616年:家康死去
寛永元年
(1624)
後水尾天皇の行幸を仰ぐため城の拡張、殿舎の整備に着手、このとき本丸、二の丸、天主完成し現在の規模になる。 1623年:家光将軍となる
寛永3年
(1626)
9月後水尾天皇二条城行幸(五日間)  
寛永4年
(1627)
行幸御殿など殿舎の一部を城外他所に移転(6年まで続く)  
寛永10年
(1633)
7月小堀遠州城内に茶室をつくる。翌年6月完成  
寛永11年
(1634)
家光三十萬人と称する大軍を率いて入城、このあと二条城には二条在番を置き留守居をさせる。(大番頭四人、番士五十人)  
万治3年
(1660)
4月大風雨のため被害をうける。 1651年:家綱将軍となる
寛文2年
(1662)
5月大地震のため城内各所被災する。
11月修理に着手
 
寛文5年
(1665)
5月地震により石垣や二の丸殿舎の一部破損  
延宝5年
(1677)
本丸、二の丸施設破損修理、8年(1680)まで続く  
貞享3年
(1686)
二の丸施設破損調べ、続いて27ヵ年かけ修理
他方二の丸現在の殿舎を除く他の施設をとりこわす。
この頃各所の修理、天守の修理(翌年5月まで)
1680年:綱吉将軍となる
寛延3年
(1750)
8月雷火により五層の天守消失する。 1709年:家光将軍となる
1709年:家宣将軍となる
天明8年
(1788)
1月市中の大火により本丸殿舎、同櫓消失する。 1716年:秀家将軍となる
1745年:家重将軍となる
1760年:家治将軍となる
1787年:家斎光将軍となる
天保元年
(1830)
7月大地震により被災する。 1837年:家慶将軍となる
天保3年
(1832)
7月大地震による破損を修理する。  
文久2年
(1862)
将軍家茂の上洛を迎えるため二の丸殿舎の整備及び仮設建物の造営に着手  
文久3年
(1863)
3月家茂入城(1634年三代将軍家光が入城して以来229年目) 御所に桂離宮造営
1853年:家定将軍となる
慶応2年
(1866)
12月二条城内において慶喜15代目の将軍職を継ぐ 1858年:家茂将軍となる
慶応3年
(1867)
10月二条城内に40藩の重役を参集し大政奉還の会議がなされる
二の丸御殿大広間において慶喜が大政奉還を発表(二条城ではじまった徳川将軍家は同城で終わりを告げる)
1866年:家茂大阪城で死去
明示元年
(1868)
1月城内に大政官代がおかれる。(減殺の内閣にあたる)  
明治4年
(1871)
2月二の丸御殿内に府庁を置く。のち一時陸軍省になる。  
明治17年
(1884)
7月二条離宮となる(宮内省所有)  
明治18年
(1885)
大修理が実施される  
明治26年
(1891)
京都御所北東部にあった桂宮御殿を本丸に移築し本丸御殿とする。翌年完了。本丸庭園(芝生)造成  
明治30年
(1897)
二の丸殿舎の破風金具、入側小屋、廊下廻り、格天井の張付絵を真相する。  
大正4年
(1915)
大札用の大饗宴場を二の丸北部に造営、二の丸御殿の一部模様替え南門ができる。 1915年:京都御所で大正天皇即位の大典が行われる
昭和14年
(1939)
宮内省より二条離宮すべてを京都市に賜る。文化財指定を受ける  
昭和15年
(1940)
2月11日恩賜元離宮二条城として一般公開をはじめる  
昭和25年
(1950)
文化財保護法の制定により二の丸御殿が国宝に、本丸御殿、隅櫓など他に多くの建物が重要文化財指定を受ける  
昭和40年
(1965)
清流園造成(約400年前角倉了以の造成した邸宅の庭石などを使用する)  
昭和57年
(1982)
二の丸御殿の障壁画が美術工芸品として重要文化財指定をうける  
昭和58年
(1983)
4月収蔵庫として二の丸折れ曲がり土蔵の一部を復元する  
平成4年
(1992)
5月黒書院の障壁画は模写画と張替を完了し、原画は収蔵庫に保存  
平成6年
(1994)
12月世界文化遺産に登録される  

使用している数字等は、2008年04月04日の二条城内年表を参考にしています。


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