(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2022年07月19日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


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甲賀市甲南町野田 臨済宗永源寺派 福聚山 慈眼禅寺〔慈眼寺〕


滋賀県甲賀市甲南町野田にある「臨済宗永源寺派 福聚山 慈眼禅寺(じげんぜんじ)慈眼寺(じげんじ)〕」です。

伊賀街道(いがかいどう)のルートを少しばかり伊賀方面に戻って来ました。

子安地蔵尊(こやすじぞうそん)から直ぐにこのお寺があります。

本堂のガラス戸越しに閻魔大王像や地蔵尊像が祭られていましたが、観音像は見えませんでした。


甲賀武士ゆかりの寺 慈眼寺(じげんじ)

慈眼寺(じげんじ)の前身は、六百年ほど前に建てられた法蓮寺(ほうれんじ)という天台宗の小さな寺でした。

荒れていた寺が再建されたのは、慶長五年(1600)の伏見城の戦いで活躍し、徳川幕府から野田に領地を頂いた甲賀武士、望月氏の力によるものでした。

本堂の棟札(むなふだ)慈眼寺(じげんじ)建立記(こんりゅうき)には、慈眼寺(じげんじ)の開山について次のような話が書かれています。

「天文六年(1537)七月に大雨があり、杣川(そまがわ)の川辺に観世音菩薩像(かんぜおんぼさつぞう)が流れ着いた。

それを持ち帰って法蓮寺(ほうれんじ)に安置したところ、その御霊験はまことにあらたかであった。

それから百余年を経た正保二年(1645)に、野田の領主望月嘉左衛門(かざえもん)の老母華英精錦大姉(かえいせきんだいし)が新しい観音堂(かんのんどう)の建立を発願(ほつがん)し、これを喜んだ村人総出の手伝いによって、慶安三年(1650)八月に本堂と庫裏(くり)が完成した。

そして八月二十二日に落慶法要が盛大に営まれ、これを機に臨済宗永源寺派の末寺、福聚山(ふくじゅうさん)慈眼寺(じげんじ)

慶長五年伏見籠城(ろうじょう)の士の墓と位牌(いはい)

山門を入ったところに、慶長五年(1600)伏見城の戦いで城を護って籠城(ろうじょう)、討ち死にをした甲賀武士の墓があります。

また、本堂には伏見籠城(ろうじょう)の士の位牌(いはい)が納められています。

伏見城の戦いで活躍した甲賀武士たちは、関ヶ原の戦いの後、こうか百人組として徳川幕府に御抱(おかか)えになり、江戸城大手三ノ門御番を勤めました。

それから二百五十年後の嘉永(かえい)二年(1849)、先祖の追善供養のために、代表が甲賀のゆかりの地を訪れて先祖の墓参と法要を行いました。

墓と位牌(いはい)は、この時につくられたものです。』

※ 境内掲示より


この周辺は度々通りかかるので、また訪問参拝したいと思います。