(話題、視点、論点)View halloo!!:狐狩りの時の「ほら出たぞー」という掛け声 【:2021年05月11日】







昨今のインターネット上のHTTPS接続の推奨等の動きは悪くないと思うのですが、不安を煽って必要のない閲覧のみのページも巻き込まれていくようです。

私も齢を重ねてまいりました。

寺社仏閣史跡等の訪問レポートを書き溜めているのですが、2022年まで溜まってしまいました。

この際、それまでに死亡すれば別ですが、2022年末をもってサイト閉鎖する決心を致しました。

ありがとうございました。


xHOTZONE Go to xDataBase viewhalloo Tips p2pzigzag p2pzigzag hrkz p2pzigzag Go to Home evtcal reporter2

甲賀市信楽町上朝宮 三所神社


滋賀県甲賀市信楽町上朝宮にある「三所神社(さんしょじんじゃ)」です。

土地勘も出来てきてほぼ位置が解っていた誓光寺(せんこうじ)に訪問参拝に来たのですが、寺院の階段脇に鳥居が立っていました。

真っすぐの長い参道が続いています。

河内平野の神社では、この様な長い参道は「馬場」であったことが多いのですが、由緒書き等にも記載がありませんので私には解りません。

戦いの度に寺社仏閣が焼き討ちされている理由は、信仰の対象であっただけでは説明がつかないと思います。

もっと別の理由が存在したということでしょうか。


『滋賀県指定有形文化財

三所神社(さんしょじんじゃ)本殿(ほんでん)

平成元年三月三十一日指定

神社の創立は明らかではないが、貞観十年(868)、飯尾山より現在地に遷座したと伝えられ、素戔嗚尊を主祭神として三座を祀っている。

本殿は、棟札により宝永五年(1708)九月に、甲賀郡野村の大工雲九朗右衛門宗静によって上棟されたことが確認できる。

建物は三間社の切妻造に一間の向拝を付け、屋根はもと檜皮葺である。

正面三間、奥行三間の母屋は正面通り一間を外陣、奥二間を内陣とし、内陣最奥間は三座を祀る間仕切りを設けている。

正面の建具は美しい花狭間格子戸とし、木鼻や蟇股、脇障子の彫刻は見事なもので、虹梁の絵様は独特の波彫刻である。

妻飾りは発達した二重虹梁の形式で、ひまわりを図案した蟇股やぶどうを彫刻した笈形など装飾性に富んだ意匠でまとまっている。

県下に類例の少ない三間社切妻造で、細部に華やかな彫刻を施した近世の本殿として貴重である。

平成二年三月

滋賀県教育委員会』

※ 境内掲示より



三所神社(さんしょじんじゃ)由緒碑

御祭神

木花咲耶比売神(このはなさくやひめのかみ) 素戔嗚尊(すさのおのみこと) 罔象女神(みずはのめのかみ)

由緒

当社の産土神は、古くは三照大明神と呼ばれ縁起などから養老年間南都興福寺(こうふくじ)の沙門義淵僧正が山城国宇治田原と朝宮石堂、通称信楽の峰に存した飯尾山医王教寺を創立され、これが鎮護のため此の地に守護神として、社を建立されたという。

平安時代三井寺の宗祖智證大師か貞観九年 (867) 当神社に参籠、社前で法施をされ翌年飯尾山寺より祭神の遷座が行なわれ、現在地に神殿を建てられる。

延元二年 (1337) 南朝と北朝の争いで、大塔宮二品親王の令旨受け朝宮地侍は、南朝に味方するが足利幕府の北朝にせめられ、神社は焼き討ちに合い炎上する。

往昔、毎年四月五日神前で金光明勝王経を読誦し天地長久を祈願する法会が行なわれ、これを最勝会と唱えられている。

元和元年 (1615) それまで朝宮一村だったが、朝宮上村と下村にわかれる。

寛永五年(1628)諸願成就を祈り寄進された木札が今に残る宝永五年戌子九月 (1708) 本殿が春日造り三間社流れ造りの檜皮葺で再建され、その棟札が古文書と共に保温され、これが現在の社殿である。

明治八年三所大明神の社名を三所神社と改名され、明治九年村社に列せられる。

明治二十一年五月拝殿が上棟される。

昭和五十五年八月宮座七座の建物とその伝承行事が信楽町文化財に指定される。

平成元年三月本殿が滋賀県建造物文化財に指定される。

祭礼は、宵宮神事十月九日、例祭、十月十日。』

※ 境内掲示より


参拝できて本当に嬉しい限りです。

滋賀県の数多くの神社は歴史があります。


関連情報レポートリンク

【滋賀県甲賀市 神社一覧】